京大事件から、他者への痛みについて

レイプというのは女性にとって激しく辛い出来事である。暴力によって自分自身の尊厳を奪われる。殺人に等しいほどの恐怖であると想像する。京大の発情馬鹿は女性の存在を固有の一人格としてとらえずただの性の道具としてしかみなしていない点で「もうこいつら宮刑にでもしていいよ。」などと思うが、例えば痴漢なども、あれも「禁固刑25年ぐらいにしていい」などと思いたくなる。己の欲望を一方的に無関係な他者に押し付けるというのはやはりただの暴力だ。昨今は女性が黙っていないので掴まるヤツも増えたが、逆に冤罪、或いは完全に悪意を持った女性が善良な男性を陥れるなどという事例も増えているようでこれはまた別の意味で厄介だ。後者などの悪意あるものは男性にとってレイプに等しい暴力だろう。
犯罪を犯すか犯さないかといった場面で、相手の存在に対する想像力が結局ブレーキになるであろうことは多いと思う。嫌がっている人間に対し何かを行う、或いはおそらく相手は傷つくであろうことが想像出来ることを行うというのはよくない事だという基本的な想像力の欠如は、様々な場面で齟齬を生じさせるのは、例えば先日取り上げたメールのハートマークのセクハラ問題などでもそうだが、嫌がっている相手に馬鹿げた行為をし続けた教授は相手の嫌悪への想像力が欠けていると思う。しかし逆を言うなればその程度の内容(エロネタでなくただのハートマーク)において「人権委員会>マスコミでの取り上げ。」という社会的制裁色の濃い手段に出るのもバランスとして欠いているのではないか?つまり「行き過ぎだろ?」と、思ったのは、今度はその教授が受けるであろう痛みへの、つまり起こした問題に対してアンバランスといえる不当な罰の重さを感じたからなのだが。
何事かを批判したり、或いは罪と定めるとき、そこには被対象者となる誰かがいる。こうしたことの想像力の欠如によって様々な人が怒りを表明することはよく見られる事だ。
最近、よく或る現象に、特定の思想の人が特定の思想の人を十把一からげにして批判する事に怒る。という場面である。「サヨク」と「ネット右翼」ということやフェミ対反フェミとか、まぁ色々。どっちもどっちだなと思う事がある。「サヨク」を「共産主義者、フェミ、プロ市民ジェンダー、弱者の救済運動」を一緒くたにして批判するような「ネット右翼」という存在があるとか、「ネット右翼」を「伝統主義、反フェミニズム、小泉マンセーリバタリアン軍国主義」などと一緒くたにして聞く耳持たない存在と決めつけている「サヨク」がいるとか。どちらも実存の人間に比すれば幻想の存在だったりする場合もあるので、自分自身がそうであるだろうと頭ごなしに批判をされると怒りだすものもいる。しかし怒りだしている人が実は相手に対しては同じものの見方をしてる場合も多いんで、どちらにも汲み出来んなぁ。。などと思うのだが、相手の実存、つまり存在を、単純化してしまうというのはやはり他者への想像力の欠如ではないのかと思う。とはいえ、こういうのはなにかを語るとき、ついやってしまいがちな行為で、誰しもが無意識に陥ってしまうことではあるだろう。わたくしもタマにやってしまうよ。
騒音おばさん、ゴミ屋敷についてuumin3さんのエントリで出ていたが、これも「近所の人への迷惑」という他者への問題が絡むわけだが、個人の権利が肥大しすぎていて取り締まれないという変な現象が起きている。個人の権利、自由とは大切だ。ちょいと挙動がおかしいというだけでその人が差別されるような社会はマイノリティにとって生き辛い。例えば性同一障害に悩む人などの権利はやはり皆で考えねばならないだろうが、しかし騒音という暴力を行う事は自由であるか?ゴミを収集する事への権利ということははたして本当に自由でいいのか?
こうした線引きを「不快感」だけではかるというのも、これまた難しい。ある人はオカマちゃんの存在そのものが不快である。などといいだすかもしれない。うちの父などは髪の長い男を見るだけでキモイ。うざい。髪を切れ!などと切れまくっていた。私などは視覚人間なので美観というのはすこぶる大切なのではあるが、例えばある人が「俺は赤い色が嫌いナノで世の中にある赤い色のものは全部排除しろ。」ということと「美観を損ねる視覚的存在の排除」とはその線引きはどこで行えばいいのか?とか、もうそのボーダーというのが実はよく判らない。例えばヨーロッパなどでは意外と「美観を損ねる」ボーダーがはっきりしていて地方自治体が介入する事も多い。無秩序な看板は赦されないとか。壁の色や屋根の色まで規定されている。そういうのは大切にするのだが、道端に犬の糞が落ちていても平然としている。ゴミの散らかし度もすごい。こっちも美観という基準がどうなっているのかわからん。
社会共同体というものに生きるということはどういう事なんだろうと思うが、ただそれには「責任がある」「隣人への想像力は大切である」ということを忘れてはならないとは思う今日この頃。いかがお過しですか?