共依存

木走さんがかつて「イラクの三馬鹿」と批判された今井氏のブログが炎上していることをとりあげておられた。
○木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060213/1139830670
■[主張][社会]今井紀明氏のブログ炎上についての一考察〜「村八分」的な言論封印は健全ではない
→あの騒動の時、今井氏やその時、誘拐された女性などの市民活動家に批判が集中した。危険地域にのこのこ出掛けた彼らへの批判だけだったらここまで騒ぎは大きくならなかったのだろうが、問題は彼らの家族が一様にある特定の政治思想を背景とした政府批判をはじめたことに違和感を感じた人が沢山いたことで、彼らへの批判が異常な形で噴出したのであろう。つまり彼ら三人を批判することで、隙あらばなんでも利用し、政府批判政治介入したがる短絡的な政治思想集団を批判していたという構造だったと記憶する。彼らはその象徴といつのまにかなっていた。
その煽りを受けて、何故か政治思想が異る、或いは政治と関係ないNGO団体までもが叩かれているに至っては、まぁそれはもうとばっちりとしかいいようがなかったわけだが、団子になりたがる(つまり共闘したがる)自然薯サヨクへの多くの人々の不審感というのは相当なものだ。彼ら三人はその象徴としてその身に大量の批判を纏う羽目に陥ったわけで。
それはさておき、このNGOや市民活動に対する批判というのもある。
上記の木走さんのエントリから、その「市民活動家」にしばしみられるメンタリタィとして、それについてここ数日、uumin3さんが取り上げておられた。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060214#p3
■ある種の市民活動家の一つの傾向
→もとはuumin3さんが「他者と自己」という関係性の問題を以前から考えておられて、「共依存」だけではなく「信じる」といったことの分析など、他者と自我との問題は度々取り上げておられた。上記のエントリに続く数日のテーマはそのような「共依存」の関係性であり、「共依存」という問題についてはたまたま木走氏の上記の今井氏のエントリが在ったので、テーマのなかの一つの事例として取り上げたのだが、このエントリに「ちょっとまて」という批判がlazarus_long氏から入った。
○愛に史観を-NetWatch-
http://d.hatena.ne.jp/lazarus_long/20060215/p4
共依存というレッテル
→もともとlazarus_long氏はその前日に「■迷惑をかけていない人はいない」というエントリで

社会規範的に許容されがちな迷惑と、そうではない迷惑があるだけだ。
ケアワークをこなしていない専業主婦がニート/フリーターを断罪する例にも似ていて、「社会規範上正当とされる」指輪を獲得すれば、自らの迷惑は一切無視し、他人の迷惑はここぞとばかり言い募る、どうもそういう「罪なき者より石を持て」みたいな話が多過ぎな感じもする。

・・・・という話を書かれていて、その文脈で「市民活動家」への或る種のステロタイプ的レッテルは如何か?という批判なのだと思われる。これらのやり取りは双方のエントリをみていただくとして、もともと前述した通り、uumin3さんは「自己と他者」との関係というテーマに興味があり、「共依存」だけではなく「寂しさを紛らわす」という自己ー他者メカニズムについて等、つまりその「自己と他者の関係性のメンタリティについて」という話であり、「市民活動家」を批判する意図ということではなかったと思うのだが、lazarus_long氏は他者が他者を批判するときの問題がテーマとしてあったということで、確かに一部の事例の問題を以て、全てを象徴してしまうかのような方法論の危うさという問題はあるだろう。おそらくlazarus_long氏の念頭には今井氏を巡る問題から多くのNGO団体が十把一からげに批判されていったあの光景が在ったかもしれない。
さて、お二人のやり取りから離れ「共依存」というテーマについてだが、こちらは「他者と自己」という関係についてその後uumin3さんも論考を進めておられるが、わたくしも少し考えてみたい。
そもそも木走さん処にも少し書いたが、キリスト教ギョーカイは「おせっかい」と評されるほどに他者を気にするところで、「他者の為に」という働きをしたがる人は異常に多い。「隣人愛」というものを説く宗教ならではというか。また昨今は「コミュニオン」とか「コンパッション」とかいう言葉などもよく聞くんだが、とにかく「他者との交流」とか「他者への憐れみ」とかまぁ「共にそこにいてくださる神」といった他者を通じて自己にフィードバックされる信仰というものをよく目にする。
私のようなひねくれ者は、「祈りの時は一人がいい。」「平和の挨拶など無理やりさせるんじゃない。」「ミサは大勢いながらにして、個人としては孤独を味わえる方法論がいいづら。故に食卓を円形に囲む式の聖堂って嫌じゃね?」とまぁ「交流」をテーマにしたがる時流とは逆らいまくっている。そういうひねくれ者の私ですら、他者への依存という部分は自我の中に歴然と存在する。と、思っているし、他者と自分の相互の関係性というのは重要であるのではないか?などと思っている。だから「共依存」というものをあまり病理的に、否定的に受け止めていない。単に割合の問題なのではないか?と思っている。
「市民活動家の一部にみられる」という事象「他者を助けることで、自分自身も助けられる」といったことはごく当り前のことで、そのシステムを逆に理解していない、自己完結で終了しているような人だと「与えたものは、取り返されねばならない」という自己中な関わり方になり、ボランティア世界でもトラブルを起こしたりしてしまう。あるいは「与えること」を別の目的で利用しようとする人々(政治利用する人とか)などもいるので、こういうのは行き過ぎると問題だったりする。助けようとする人々が置かれた政治的な問題提起ではなく、あくまで自分自身の為に関わりを持とうとするような場面において。
ところで、あるフランシスコ会の修道司祭が遠い貧困と伝染病に苦しむ人々のいる絶望的な環境の地で働いていた。彼は「自分が彼らに生かされている」と言っていた。その手伝いをしに出掛けた人が、打ちのめされて帰って来た。助けようとする相手の強欲さや、助けてくれて当り前的なものへの嫌悪が、結局自らの精神の弱さとして自覚させられ、絶望したようだ。
中世キリスト教社会の世界では「貧者にものを施す」というのは天の国で報いを受けることになるという、自らの救いの問題であったわけで、他者を助けるというのはそういう意味では「受け取ることになるのだ」ということが前提になっているので目の前にいる人間との関係性は神を通じて行われることになる。だから被対象者に対し「こんなによくしているのに、何故、感謝しないどころか当然のごとく受け止めるのだ???」的な怒りというのは生じない構造に一応なっている。神というものを介在にするイスラム圏などにおいてもそのような精神構造は今もあるだろうし、ヨーロッパにおいても残っていると思う。こういう場合は病理的な領域にある「共依存」というのは起き難いかもしれない。持てるものが持てない者を助けるのは当然である。的な発想が当然となるので。助ける側の心理的な圧迫も軽減される。ただ、これは以前も話題になったが、貧困者等の根本的な問題の解決になんら寄与しないという方向に行き易い。
また、個人の内面の問題ではなく、集団としての問題としての「共依存」がある。
例えばボランティア活動などにおける「共依存」としては、そのグループ内の集団心理的な問題がある。同じ目的を持った仲間が共に働くというのは能率の上でも大変に効果的である。概ね健全な団体はこの効率性に着目し動く。弱者救済を謳う「救世軍」のような組織が軍隊構造を採択したのはこの効率に着目しているからだろう。事実、災害などの混乱した現場では彼らのような明解な命令系統を持つ団体は非常に有効的である。
しかしこれらの団体が効率性ではなく精神性に重点を起きはじめると歯車が狂いはじめるときがある。すでにして目的である活動が達成されている、或いは動きつつあるという、機能上の成果が治められていればそれで充分であるはずなのだが、共に働く同志への過度の依存、或いは「よきことは他者にとってもよきことである」的な心理が、その仲間うちの価値として共有され、それに同意しないものを排除する的な方向性にまで行く場合がある。目的が「助ける」ではなく「同志が集う」という方向に行ってしまっていると、こういうことが生じやすい。
「会の中を変えたいんだよね」と言っていた修道僧がいて、修道会内部の改革めいたことを口にしていたのだが「同志を集めないと」「連帯しないとダメだ」などと言っていたので「あ〜?そんな手を繋いで改革なんていってる時点で、もうダメなんじゃないの?」と冷たい応対をしていたことがある。その後「皆が判ってくれない」などといじけてしまったようで「皆と共に」が先にあるから問題で、「なにをするか?」が重要なんじゃないのか?皆が判ってくれなきゃ自分だけでもやりゃぁいいのに・・と、その時は思ったもんだが。この場合も「他者との精神的絆」が重要視されている一例ではあろう。
(一休みして続きます)