身勝手な精神

ちょっと前に、川崎で小学生がマンションから落とされ、亡くなるという痛ましい事件があった。通り魔殺人。見ず知らずの他人に、さしたる理由も無く殺されるという理不尽。なんともいいようがない。
この件に関しては随分前にuumin3さんや某司教区の司教が取り上げていた。

○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060403#p1
■いいわけ
「リストラ>苦悩>犯行」という物語がそこにあったのか、あるいは単なる方便だったのかわからない段階ですが、いずれにせよ自分のストレス・悩みで人を殺してよかろうはずもありません。言い訳にもなっていないことになぜ気付かないのでしょう?

 言い訳といいますか、自分の言動の正当化がうまくできない人が多く現れているような気がします。

○司教の日記
http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2006/04/post_b816.html
しかしそれよりも何よりも、殺されてしまった幼子自身の心を思うとき、なぜそうなったのかも分からないまま味わった、一生を終えていくことの悔しさと恐怖。その心に思いを馳せて、涙せずにはいられません。理不尽な出来事は、なぜそうなるのかという理屈が全く分からないために、同様の事柄は誰にでも起こる可能性があるという恐怖を抱かせてしまいますから、目に見える形で犯人が捕まったとはいえ、多くの人の心の底に、「得体の知れない恐怖」の種を蒔いてしまいます。そして「得体の知れない恐怖」は、疑心暗鬼を生み出すだけです。

この理不尽な出来事も、人間の仕業である限りにおいては、何か犯人の心にはその人なりの理由があるのかもしれません。でもそれはあまりに身勝手で、あまりに内向きです。

どちらも犯人の身勝手さを指摘しています。
そして、その身勝手さの光景は弱者への攻撃性として顕れます。

▼<川崎男児転落死>今井容疑者「弱い子供と女性狙った」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060404-00000123-mai-soci
 川崎市多摩区のマンションで起きた投げ落とし事件で、3月29日に清掃作業員の女性(68)を15階から投げ落とそうとした殺人未遂容疑で逮捕された同市麻生区細山5、無職、今井健詞容疑者(41)が、神奈川県警多摩署捜査本部の取り調べに対して「私よりも弱い子供と女性を狙った」などと供述していることが4日、分かった。捜査本部は、弱者を無差別に狙った殺人・殺人未遂事件との見方を強め、動機などを追及している。
 一連の事件は、3月20日午後0時50分ごろ、多摩区中野島のマンション「リバーグリーン和泉」15階エレベーター前通路から、同市立中野島小3年、山川雄樹君(9)が約45メートル下の植え込みに転落し死亡。
 さらに同29日午前9時半ごろ、同じ通路で、清掃作業員の女性を突き飛ばしたうえ投げ落とそうとしたが、悲鳴を上げられたため、階段を下りて逃走した。
 今井容疑者は両事件への関与を認め、「私よりも弱い人を狙った」「殺そうと思って狙ったのは子供と女性です」などと供述しているという。
 今井容疑者は、女性を襲った約35分前にマンションに到着。エレベーターで15階に上り、同階に住む別の女性に「ちょっと」と声をかけていた。この際も「殺すつもりで声をかけた」と供述。雄樹君が転落死した3日前の同17日夕にも、今井容疑者によく似た男が同マンション15階付近をうろつき、何度もエレベーターを乗り降りする姿がビデオカメラに映っている。
 今井容疑者は、雄樹君と清掃作業員の女性について「どちらも面識はない」と供述している。捜査本部は、今井容疑者がマンションを度々訪れ、腕力で劣る子供や女性を物色していた疑いが強いとみて、両事件以前の行動についても調べている。【伊藤直孝】
毎日新聞) - 4月4日22時6分更新

自分より弱い女性や子供を狙う。随分と卑怯なトンでも男である。
というか、概ね理不尽な物理的暴力の被害者は「弱者」である。こうした犯行を行うものは、なにかしら社会やあるいは生活面で、人間関係で生じたプレッシャーなどにめげてしまう時、それを自らのうちで解決出来ずまったく理不尽な思考回路でもって攻撃性に出る。そしてその矛先は自分と無関係の「弱い」人間である女性や子供、老人、あるいは昨今はホームレス等に向ったりする。母親の子供への虐待なども同じだろう。
理由も動機などもない。ただ精神的に弱く、あるいは幼く、それを解決出来ない故の攻撃性である。要するに度し難いチキンなわけなんだが。しかしチキンもこんなことが起きると大問題である。精神的に弱いで済まされない。

最近、自分は××の精神的疾患である。という人が周りに増えてきた。いやはや、ほとんど精神的に問題抱えている人しかいないんじゃないか?と思うほど多い。電話を下さる方もいればメールを下さる方もいる。ネット上で話をする方もいる。正直、私だけが病院にかかっていないんじゃあるまいか?と思うぐらい多いのだ。私だって激しく落ち込むし人付き合いも引き篭もりに近いってのだが、病院いって薬処方してもらっているってことはそれ以上ってことなわけで、それぞれが抱える問題は確かに大変だったりするし、う〜ん、日本はどうなってしまったんだ?と、心配になったりもする。
しかしまぁ、例えば「鬱」と言っている人に限って自らのことを話すに異常に意欲的で、饒舌だったりするので、「それは鬱ではなく、操だと思う」と、いいたくなることもある。深刻な鬱の人を知っていたが、そういう意欲などからきしない。自信がないから自分の事など話せない。しかも薬飲んでるとボーーーとして何も出来なくなるみたいで「それが怖い」と言っていた。そしてある時、亡くなった。言葉がほんとになかった。
とにかく、そういう「鬱」を主張する「積極的な鬱」な人は、おそらく誰かになにか話を聴いて欲しいのだろう。こんなに周りに人がいるはずなのに、自ら少し扉を開ければ他にも話を聴いてくれる人は多いだろうに。。。とは思うものの彼らは他者の関係性を求めようとしている。希望を探そうとしている。その点において、救いはある。諦めていない。

正直、ほんとに落ち込んでいる時は話さない方がいい。何も話さず主張しない、それはそれに対する他者の言葉を期待せずに済むというのが一種の防衛策だったりもする時がある。私などはそれで落ち込みは克服するのだが、しかし、件の犯人は語らなさ過ぎて鬱屈していくタイプのようだ。防衛策も度が超えるとよくないのかもしれない。そして暴力にでるタイプは、言葉を持たない人だったりする場合が多い気がする。

uumin3さんはこの件に関して

確かにリストラされて苦悩したという物語はわかり易く共感も受け易いでしょう。しかしそこから人を殺すというところには動機としてのつながりが欠けているとしかいいようがありません。ストレスで精神に異常をきたしたので責任能力がないという図式にはめたいのでしょうか。それともリストラされた弱者の犯行ということで、いくらかは社会の責任とやらに押し付けることができると考えているのでしょうか。

 今の私の印象では、殺意はあったが動機がないということのようにも思われます。動機を考えるだけ無駄ではないかと…。

犯人に動機はない。その通りだと思う。ただ鬱屈した攻撃性が存在しただけだと思う。
そして社会はそれを赦してはいけない。例え彼にどんな状況があったにせよ「暴力」は赦されるもんじゃない。
また、同時に彼の悪しき心は自らの「怒り」のうちに存在するかもしれない。キリスト教の罪として「7つの大罪」などと呼ばれるものがあるが、「憤怒」はその一つである。
或いは、他者の痛みへの無理解。目の前の人へナニしてもいいという自己中。そういうものは日常でもよく目にする。「法さえ守れば」などという理屈をこね、目の前にいる人への愛が欠けているという事例もよく目にする。ネットでも相手の言動が気に入らないと、論そのものではなく人格攻撃(論と無関係な相手の立場や属性に攻撃加える)に出るようなのも多く目にする。「自分の恋を成就させたいから不倫はオッケーね♪」などといってるのも同じだ。不倫というのは泣く人が必ず存在するんだぞ。或いは自分の主張のために、他者への配慮に欠けた方法論。或いは、遠くの人には愛の目を向けるが、目の前の同朋には厳しい視点を投げ掛ける人々。(<クリスチャンに多いのは何故だ?目の前の人をとにかく裁きたがるのが多い。)
これらどうしようもない理不尽な「憤怒」や、他者の痛みへの想像力の欠如は日常の我々の中に潜む「悪」ではある。他人事ではなく、自らのうちにあることだと思う。
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司教は以下のように結ぶ。

四旬節第五主日にあたり福音は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである・・・」という有名なヨハネの一節を朗読します。イエスが求める信仰は、徹底的に外向きの信仰です。種の内にこもり、自分のためだけの信仰を守り、自分のためだけに生きるのであれば、それはそのまま失われていく種です。「自分の命を愛するものは、それを失う」とまで言われます。

 自分勝手な理由から、罪もない他人の命を奪う心。その心の思いは形を変えて、すべての人の心に潜む悪の力のひとつなのだろうと思うのです。私たちは、自分のためだけに生きることは出来ません。イエスに従い、イエスの福音に生きることを誓った私たちは、そのような悪の誘いに徹底的に立ち向かわなければなりません。そして、自らの人生を、他の人への奉仕の生き方と出来るように努力したいと思います。

この祈りに私の祈りをそえ、四旬節の祈りの仕上げにしようかと思う。
四旬節とは、我とわが身を振り返る時ではある。
社会を変えたいと思うなら、他者への批判などよりも先ず自分が自分に対し厳しい目を向けるしかない。自らの日常から変えるしかない。
聖フランシスコは少なくともそれを実践した。
聖人ではない凡人の私は、少しだけ倣う事しか出来ないけど。