与論の悲劇

◆島の起源
与論島は小さい島である。人口6000人弱。空から見た島は平べったい。プチっと神様が親指で潰したみたいだ。だから小さいけれど人口はわりと多い。でも島の周りは一周してもマラソンコースには満たない。だから年に一回行われるヨロンマラソンでは折り返し地点を設けて、実質2周する。昨年のマラソンでは沖にクジラが遊ぶのが見えるとて、ランナー達が足を停め、しばしクジラの戯れているのに見とれていたとか。
与論島はヨロンジマという。カタカナで書かれることもあるので外国だと思う人もいるけど、れっきとした鹿児島県である。でも沖縄の方が近い。晴れた日には沖縄本島が見える。鹿児島県の隣島の沖永良部よりずっと近い。「与論」検索すると「世論」の誤字とか、「贈与論」なども引っ掛かる。贈与論ってなんだろう?
その与論の歴史はちょっと古い。口伝では3000年前に人が移り住んだという。記録では推古天皇の頃に大和に帰属していたらしい。大和に帰属するまでのは牧歌的な小さな共同体の世界でその時代を「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶ。その後大和の支配からはずれ「按司世(あじゆ)」と呼ばれる時代、按司という支配者の治める世が続く。島の高台には城(ぐすく)が築かれその周りに村落が形成され、一つの小さな王国があった。時おり琉球王が攻めてくる。与論に残る多くの民話にはこの琉球との戦いの光景も記されている。しかし13世紀。琉球王朝は善政を敷き、その評判を慕った与論人は琉球王に朝貢し、その支配下に入る。そして平和な日々が続く。これを「那覇世(なはゆ)」と呼ぶ。
◆薩摩と与論献奉
17世紀、薩摩の島津藩支配下となる。これによって与論は琉球と分断され、奄美の島々は過酷な薩摩の搾取の元に苦しめられたという。サトウキビの年貢による搾取。この思い出が那覇世を平和な時代と思わせたかもしれないと言われている。この時代を再び「大和世(やまとゆ)」と呼ぶ。
薩摩の役人をもてなす為に生まれた伝統「与論献奉」は今も残る。宮古の「おとーり」同様、きつい地酒を飲ませて酔わせてしまう、お酒に弱い人間にとっては恐ろしいもてなしだ。今は宴会があるとどこでも「献奉」だ。地酒の黒糖焼酎でしたたかに酔っぱらった島人はサトウキビ畑でぐーすか寝ていたりする。ハブが居ないので安心して寝る。道路でも酔っぱらって寝込んでいるのがいて、轢かれる事故が多発し、ついに黒糖焼酎の度数を低くするという奇策が考え出された。だから与論の地酒「有泉」の度数は低い。酔っぱらって運転して帰ろうとする不届き者もいて、かつてはサトウキビ畑に突っ込んだり、困った事態もあったらしい。今は運転代行業が盛んである。皆で気をつけるようにしている。とはいえ飲む酒の量は尋常じゃない。お陰で次の日職人さんが酒臭い。タクシーは流石に飲めないので、運転手の飲めないぼやきをよく聞く。
◆三池争議に到るまで
明治になって、与論は飢饉に襲われる。南方の島には多くのソテツが自生している。この蘇鉄の実を粉にしてなんとか餓えをしのいだという。こういう飢饉を「蘇鉄地獄」などというが、蘇鉄には毒が含まれよく水に晒さないと中毒になる。そんなものを食べねばならぬ程の過酷な飢饉。それが明治の31年にやって来た台風によって引き起こされた。食べるものもなく、蘇鉄の毒で死ぬ人まで現れる。これらの苦難を切り抜ける為に、小作農民達は島外で働くことを決意する。こうして多くの与論人が三井の炭鉱へ移住する。しかし待っていたのは厳しい差別と重労働と貧困の生活だったという。
与論の言葉は日本の言葉とまったく違う。その為になかなか大和の人とうまく話せない。そこにつけ込んで三井は与論の人々を過酷な条件下で低賃金で働かせたそうな。与論の人はしかし飢餓から脱出してきたというだけで。働けることに感謝し、よく働いたという。24時貫労働。危険な現場。人の嫌がるような条件の悪い現場に送り出された。素直で言葉の通じぬ与論人は差別の中で孤立していた。しばらく、与論の人は帰れぬ故郷を思い、三線を引き唄うことで慰めを見いだしていたという。
与論の人々はやがて三池炭鉱に移される。ここでも差別に遭い、新聞社までが「三池の与論村・全く鎖国主義の一部落」などという記事を書く。言葉の通じぬ悲しさは彼らを孤立させていた。やがて彼らの子供たちが三池争議によって勝利を勝ち取るまで、彼らは黙々と働き続けた。

与論小唄
  木の葉みたいな 我が与論    何の楽しみ 無いところ
  好きなあなたが あればこそ   小さな与論も 好きとなる

  近頃誰かさんの 顔いろは    三月桜の 花のいろ
  あれに迷うな 手を出すな    あれは誰かさんの 囲い花

この時代に唄い継がれた島唄です。
◆戦後
前線だった奄美諸島は沖縄同様空襲を受けた。奄美に建っていた立派なカトリックの天主堂も破壊された。与論にも空襲があったらしい。小学校や神社、市街地の370世帯が焼けたという。しかし上陸戦はなかった。
敗戦直後、米軍が奄美にやって来る。降伏文書には「北部琉球」と書かれている。奄美の軍司令官は「ここは九州の鹿児島県に属する奄美軍群島だ。トンでもない」と署名を拒否したというエピソードがある。以前紹介した沖縄の太田知事の文書とは認識が異なるようだ。当時の日本軍は「奄美琉球ではなく、鹿児島」と認識していたということになる。つまり「皇国」の一部だと考えていたということだ。ここにも沖縄と、奄美歴史認識の差がある。どちらが正しいのかは判らない。が、奄美の復帰50周年における歴史認識ではそのようだ。
しかし米軍は単純に北緯30度でぶった切って、そこから南を統治下におくことにする。アメリカの認識では「琉球は日本人に虐げられた少数民族」であり、最終的には一つの国家として独立させるつもりもあったらしい。琉球の島々を4つにわけ「奄美」「沖縄」『宮古」「八重山」にそれぞれ自治政府を置いたのであった。しかし島の人々は日本に帰ることを希望していた。独立など夢見ていなかった。共産党のみ独立を掲げて地下組織を作り運動していたが、自治政府の知事選挙で、琉球の島々の民は日本返還を約束する党へと票を投じた。アメリカはこの結果を受け、結局群島政府を廃止し、琉球臨時政府を作る。
この政策によって奄美は苦しむことになる。アメリカ統治下、奄美は本土と切り離され、のちに緩和されてからも渡航許可はまず沖縄本島までいかねばならなかった。アメリカは沖縄本島に作る基地の為に、沖縄本島の復興には力を注いだが、奄美をはじめとする離島の復興は熱心ではなかった。小学校での教育もままならない状態で、教師達が密航して教科書を本土から手に入れたりという有り様であった。仕事のない島民は沖縄に移住した。ここでも沖縄と奄美の日本に対する温度差が生じはじめる。復興運動が特に盛んだったのは奄美であった。何度もハンガーストライキをして復帰運動をしていた。奄美群島の99.8パーセントが本土復帰を願っていた。
朝鮮戦争が勃発し、アメリカにとって沖縄は軍事基地としての価値が高まった。しかしすでに独立のことなどは念頭にもなく奄美などの離島は荷物になると判断したアメリカは、奄美の返還を決断する。その時、沖永良部と与論を変換するつもりがなかったが、この2つの島民は「返還されないなら奄美に移住する」と決議する、あるいは小中学生が返還嘆願の血判書を送るなど、返還による分離反対の運動が盛んになった為についにアメリカはこの2島も含めた返還をすることに決定する。1953年12月25日、クリスマスの日であった。
奄美の人々は喜んだが同時に沖縄が返還されなかったことに、一抹の後ろめたさと悲しみを感じたそうだ。2003年は奄美復帰50周年だったが沖縄程騒がれることもなく終った。本土の人は奄美には関心があまりない。
◆返還後の奄美と与論
返還によって、沖縄に働きに出た奄美群島の人々は「琉球人」ではなく「日本人」の扱いとなる。沖縄にとっての外国人となり、様々な公的職場から追い出され、土地所有権の取得の権利もはく奪され、差別されることになった。沖縄が返還されるまで彼らはこうしたアメリカによる差別下にあった。

沖縄が復帰するまで、与論は最南端の島であった。沖縄返還前には「与論ブーム」が起き、多くの若い人々や左翼運動家が与論にやって来た。沖縄返還は与論の人にとっての悲願でもあった。島を挟んだ海の上、27度線の見えない線が引かれ、対岸の沖縄は「近いのにいけない島」として存在していた。与論にとって沖縄は奄美以上に近い島であり、ラジオも沖縄からの放送が頻繁に入る。沖縄と行き来出来ないというのはすごく不自然なことであったらしい。言葉も沖縄の北部と似ている。だから多くの与論の人は返還の日を心待ちにしていた。
アメリカの統治に不満が高まっていた沖縄でも復帰運動が盛んになり、沖縄の北部にある辺戸岬と与論との間の海上反戦運動が行われたり、相互の対岸でかがり火を焚いて励ましあった。沖縄にとって日本の返還はアメリカ軍からの解放の夢でもあった。残念なことにそれは未だ実現はしていない。
◆現在の与論
与論は鹿児島県にとって最南端の小さな島だ。正直産業もあまりない。かつての観光の賑わいもない。沖縄が復帰して与論の「日本の最南端」の立場はなくなったからだ。今は貧しい島だ。観光客も年々減っている。鹿児島からの飛行機は1時間40分もかかる。沖縄からは30分程だ。東京からだと何故か沖縄経由の方が飛行代が安くなる。離島運行の飛行機の割引率が低いからだ。しかし沖縄県ではない為に様々な特典からも除外されている。島民の離島割引は鹿児島に向いている。しかし遠くて割引されても運賃の高い鹿児島に用はない。皆、船で沖縄の本部に行く。観光も沖縄の島々は盛んになっている。しかし県を超えるがゆえに沖縄からかなり近いはずの与論は除外される。町の風貌もかつてはさほど沖縄と変わりなかっただろうが、沖縄との分断で瓦も鹿児島式に変り、遠すぎる為に材料もあまり手に入らずトタン屋根が目立つ。町の光景も南国情緒溢れるとはいいがたい。
しかしそのお陰か、寂れまくった与論の海はあまり汚染されていない。沖縄の人が与論の海に美しさに驚く。勿論、慶良間程すごくもないだろうが。観光客の少ない与論は徐々に秘境化しているのかもしれない。ただ経済はそれでは立ち行かない。だから与論の人はやはりお客さんに来てもらいたいと思っている。本音を言うなら沖縄県になりたいという人もいる。そうすれば沖縄の観光版図として助成金も降りるだろうと考えているようだ。島が生き伸びる為にはそのほうがいいと思う人も多い。
観光化されて多くのひとが来るのがいいのか、今のままののんびりしたままがいいのか、どちらがいいのか判らない。けれどこの島のことは多くの人に知ってもらいたいと思う。