島の資料、伝承、書籍等

◆島の歴史
http://yoron.netbank.co.jp/traditional.shtml#HISTORY
島の大雑把な歴史推移がよく判る。以下の民話は与論では有名な英雄の話。

按司世(あじゆ)の英雄、按司根津栄(あじにっちゅー)の物語

今から800年ほど前,第33代清和天皇の後裔鎮西八郎源為朝公が, 伊豆の大島から九州経由で琉球列島
へ赴く途中与論島に立ち寄られ約3ヵ月滞在された。与論の女神「ヌル」(当時30歳前後)との間に生
まれた一子が 後に琉球王(沖縄の北山王)から 喜界七間切按司(喜界島から与論島までを司る王)に任
ぜられ 按司根津栄と命名された。
按司根津栄は文武ともに優れ, 特に弓は父為朝公譲りの名手で, その弓勢は父に勝るとも劣らぬ強弓で
あった。体格も父為朝公とほぼ同じく, 身長で二米強(現存する遺骨にて推定)もあり, 豪勇に加えて
心の優しい民思いの心根を物語るエピソードも多い。
琉球王は按司根津栄の武勇に恐れをなし, 千人の兵を与論に派遣して按司根津栄を抹殺しようとしたが,
最後の一兵を残して全滅させられてしまった。 按司根津栄はその最後の一兵が年老いた飯炊きだったの
で殺さずに, 「これ以上戦いは望まぬ。」と王に伝えるように命じた。 そして、勝利の安堵感から赤佐
の浜(今のキリスト教会のある前の浜)で一休みし ようとした瞬間, 飯炊きの老人が太陽に向けて放っ
た一矢が頭に当たり, 一生を終えることになった。(頭蓋骨の矢の跡が按司根津栄の無念を伝えている。)
その後,老人の報告を受けた琉球王は, 按司根津栄の死を確かめるため千人の兵を再び与論に派遣したが,
武装したまま直立した按司根津栄の死体を生きているものと勘違いし, 混乱を来して全兵士とも沈んでし
まった。 (こうして,生きて千人,死んで千人の話が残ることとなった。)

◆三池争議の与論に関する資料

与論島を出た民の歴史

与論島を出た民の歴史

「閉山」
http://www.tku.ac.jp/~takaira/HP/book/heizan.html

神話化された三池闘争と、国鉄闘争の未来
http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/book/book1.htm

人権回復、労働者の連帯

三池炭坑の歴史を語るとき、囚人労働、強制連行、そして「ヨーロン」とよばれてさげすまれた与論島出身
労働者を抜きにしては語れない。さらに三池闘争は、みずからを誇りをもって「ユンヌンチュ」とよんだ与
論島出身者を抜きにしては語れない。
 ユンヌンチュは、三池闘争のまえの53年の1722人の解雇撤回をかちとった「英雄なき113日の闘争」を
へるなかで、低賃金での過酷な労働をしいられた下請け労働者から三池鉱山の本工労働者となることができ
た。労働組合の解雇撤回闘争は、労働組合の力強さを知るとともに「人権を回復」する闘いでもあった。三
池鉱山への消せない怨念をいだく彼らにとって、三池闘争は決して負けられない闘いであった。

ユンヌンチュの三井鉱山港務所の労働者だった竹内福雄さんが語っている。
 「囚人労働は、1930年に廃止された。そのあと、中国人、朝鮮人、およびイギリス人捕虜などと並んで、
もっとも苛酷な労働を強いられたのは、与論島出身者であった。風俗・言語のちがいは、『未開人』として
差別感を助長し、ヨゴレゴンゾウと軽蔑された労働者となって、さらに差別されることになった。その差別
をはね返そうと、一致団結して働けば働くほど、標準作業料はひきあげられ、賃金はさらに切り下げられた。
敗戦後の乱痴気騒ぎは、そんなしっこくからの解放の表現だった。・・・
 竹内さんは1961年、停年で三井鉱山港務所を退職した。勤続30年と10カ月だった。最後まで第一組合員
であった。なぜ第一組合に残りつづけたのか、それに答えて彼はこういう。『戦時中の酷い労働条件を忘れ
ることができんからです』。
 朝、仕事に出る。その日は徹夜、そして午後3時まで働かされる。その繰り返しだった。疲れはて、銭湯か
ら帰って寝ていると、係員が情容赦もなく叩き起こし健康よりも、船を1日で早くだして経費を削減するほう
が、会社にとっての重要事だった。
 新港社宅は、まわりを柵で囲まれていた。出口は守衛が見張っていた。客がきたので酒を買いにでようと
しても、『どこへ行くのか』と呼びとめられた。それがめんどうで柵を越えたのを発見され、解雇されたも
のもいた。屋根に登っていただけで怪しまれて解雇されたひともいる。社宅は収容所だった。そんな管理と
支配への憎しみ、低賃金と重労働への怒り、それが身体のなかに刻みこまれた。会社と対抗する第一組合こ
そが竹内さんにとっての正義であった。それに死の淵からようやく生還した軍隊体験がある。三井と軍隊へ
の憤りが竹内さんを三池労組に踏みとどまらせた。」

奄美返還の資料
奄美返還の推移。これを主に参考にした。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

南方新社からは多くの出版物が出ている。
奄美返還と日米関係』
http://www.nanpou.com/book/bok_094.html
『軍政下奄美の密航・密貿易』
http://www.nanpou.com/book/bok_083.html
『全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動』
http://www.nanpou.com/book/bok_081.html

奄美共産党独立運動の記録
http://homepage3.nifty.com/katote/okiillegal.html
奄美共産党奄美琉球を独立国とした共産党国家を夢見て、アメリカ統治下で沖縄の共産党と共闘し地下活動を行っていたが、奄美琉球の人々の日本への帰還の願いや、アマリカの阻止などの事情から、やがて独立運動から返還運動へと運動の内容が変化していった。この文書では奄美や沖縄がアメリカ軍下に置かれた中で、軍支配を嫌い、日本への帰属の為に闘ってきたという切な願いを知ることが出来る。現代の基地問題はこの時代からずっと続いている。
しかし同時にこの土地に「独立運動」というものがあったということも念頭においておく必要はある。そして一時期はアメリカすらそれを考えていたということも。