皇室とバチカンの外交史

どうやら皇太子殿下が東京カテドラルのローマ教皇追悼ミサに出席する模様。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050407-00000024-san-int
宮内庁は七日、皇太子さまが東京都文京区の東京カテドラル聖マリア大聖堂で八日に開かれるローマ法王
ヨハネ・パウロ二世の追悼ミサに出席される、と発表した。宮内庁によると、皇太子さまは天皇陛下の名代
として追悼ミサに参列される。

明治時代から西洋の近代政治を子供の頃から学んできた天皇家。ヨーロッパ外交をよく判っている皇室ならではの配慮とはいえるが、現場のカテドラルはその対応で今ごろパニック状態だろう。まぁ、ベルギー国王の追悼ミサの時も皇太子殿下はいらしているので、対応は慣れているだろうとはいえ、葬儀ミサに参加することは予測されたこと。
もともとバチカンと皇室の交流は長い。イタリアが祖国統一を果たした時、教皇領はヴィットリオ・エマヌエーレによって取り上げられ、教皇バチカン内に留まらざるを得なかったのだ。特定の国家の主権下に置かれない為にもバチカンは独立していなければならない。不安定な状況がずっと続き、ラテラノ条約までローマ・カトリックは領土を持たない、つまり非常に不安定な立場に置かれていた。(まぁ、教皇領なんて小さくていいんで、今の状態になってよかったとは結果的に思いますけどね。)
そういう状況下で戦前の日本政府はローマ法王庁を一つの国家的機関として早くから認めていたという。また皇室も西欧の価値を学ぶ為に度々カトリックプロテスタントキリスト教の宣教師を招き、勉強に励んでいたという。昭和天皇キリスト教というものに対しては好意的であったという。(勿論信仰という側面ではなく、文化としてであろうが)
戦後GHQが日本を占領し、靖国神社の問題や皇室の存続の問題が起きた時、皇室の存続を望み、靖国の破壊をやめるよう当時の法王庁が進言した背景には、戦前の皇室とバチカンのそのような密接な外交関係があったからだろう。皇室として、今回、出席するのはヨーロッパ的外交の伝統にのっとった礼儀であり、また過去の繋がりへの応答でもある。日本は戦前からヨーロッパ近代国家の一員であった。その立場が今更ながらこのように及ぼしているんだなぁと思う。