歴史修正主義司教、ドイツ司教団からハブ要求

ま・ここっとさんからの速報だよ。
欧州で政治的には極右とされているピオ10世会。日本の認識では典礼教義保守の会であるが、欧州ではまぁそういうポジション。
教会のシスマ(分裂)の罪として破門されていたピオ10世会の4人の司教達がが、先日、破門解除となった。彼らにはコムニオ・ヒエラルヒア、つまり「位階的交わり」についての問題があったのだな。バチカンの位階構造を無視して司教叙階された彼らは、教会的交わりの中になく、分裂した状態でその身分は宙ぶらりんであった。それを今回再び教会的交わりの中に戻る試みとして、バチカン側が「温情を示してみたよ〜」という按配だったのだ。

その4人の司教のうち、一人の過激な政治思想の持ち主ウィリアムソン司教が「ガス室はなかった」という話をしたというんで、欧州がとんでもなく吹き上がって大変だったのが先週。メルケル首相が激怒したとか色々。

さて破門解除が為される場合、受ける側は回心しなくてはならない。告解して罪を受け入れ「反省したっす」ということを明言すれば無事破門が解除が終了されはれて再び教会に戻ることが出来るのだが、今回、この歴史修正主義発言をしたウィリアムソン司教には特別に「ガス室発言について謝罪せよ」という条件が加わっていたのである。バチカンはこの司教に対し相当怒ってしまっていたのでそういう条件を突きつけたのだな。

しかしいっこうにその謝罪の言葉がないというんでまたまた欧州は吹き上がっているようです。わーたいへん(棒読み)

▼独カトリック聖職者、ホロコースト否定司教の追放求める
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200902080006.html
(CNN) ドイツのカトリック聖職者らは、ナチスドイツ時代のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を否定したリチャード・ウィリアムソン司教を、教会から追放するよう要求している。


ニュース週刊誌シュピーゲルの電子版は7日、ドイツ司教会議の議長を務める大司教の声明として、ウィリアムソン司教と断絶するべきだとの見解を掲載。大司教は「ウィリアムソン司教はどうしようもなく無責任だ。今カトリック教会に彼の居場所はないと思う」と述べた。


ローマ法王ベネディクト16世は先月21日、ウィリアムソン司教を含む超保守派4人を3日前に復権したと発表し、批判の矛先を向けられている。シュピーゲル誌によると、同司教は、ホロコーストが実際に行われたと信じられる証拠がさらに発見されない限り、問題発言を撤回しない姿勢にあるという。

ドイツは戦争責任をこのような形で徹底しているところがすごいというか、日本人はこの辺り、東条にだけ罪を押し付けるわけにはいかないよなという日本人的な「情」がある為に歴史責任をこのような形で持てないところが色々と事をややこしくしているんだが(つまり日本人的優しさが同時にあだにもなったり割り切れなさになったりしてると思う)ドイツはとにかく前の戦争責任をこのように背負っている。(もっともナチの犯罪、民族浄化ってのは悪魔的所業以外のナニモノでもないんで、同朋だからとてかばうなんて気は起きないだろうが)

で、もう過剰なまでに先の戦争の絵図を固定しそれに反するものは糾弾するという凄みがあるのだなと。先ずはそんなこと考えたのだが、とにかくまぁ、ドイツではホロコーストに関しての否定的見解にはかようなまでの反応を引き起こす。

ガス室についてに問題なのでメディアがいうようなホロコースト否定というコトではないのだろうが、単なる歴史的事実についての考察なのか、政治的意図なのかで、「ガス室の問題についての発言」というのは受け止め方が違ってはくる。
前者であるならば、このあたりのガス室の歴史的な問題などについては詳しいところはよく判らないが一応、ガス室についてはあったという意見が大勢をしめているようで、否定すると欧州メディアは吹き上がる。後者であるならばこの司教が極右ということもあり「こいつ思想的にヤバイだろ」方向に受け止められてしまうのはまぁ仕方がない。

さて、しかしコトは教会の位階問題である。
政教分離を徹底するなら、教会内人事には政治問題は影響されないはずなのである。が、それがそういうわけにもいかないのが今回の事例である。割り切って考えるべきであるかどうかという辺りが難しい。

本来、教会内に政治を持ち込むは愚かというか、世俗の政治思想で以て教会内政治に口出しを赦せば、たとえば極右の教皇ベルルスコーニ8世なんてのがいたとして、社会主義思想の司祭は全て破門されますとか、マルクス読んだから追放とか、逆に教皇スターリン5世とかいうのがいて「天皇制はあった方がいいです」「市場原理に任せたほうが経済はいいと思うよ」なんていったら即座に追放とか、そういうのは教会ではなんか違いませんか?ということで、たとえ極右思想であっても秘蹟的には問題はないというのが教会の秘蹟に考え方にある。

どういうことかというと、司教や司祭という身分は秘蹟的なものでその個人がどんなへたれで馬鹿でも、秘蹟秘蹟として作用する。つまり司教や司祭というのは単なる神の器なので、極端な話、あほな司教や司祭の言葉なんか信用できないから無視するぐらいの扱いをしてもいいのだが、秘蹟(ミサ挙げるとか、告解するとか色々な)だけは有効なんですよ。という概念がある。つまり単なる依代みたいなもんといいますか。

しかし、そうはいっても司教は教会のエロい人なのでスポークスマン的なこともしたりするし、人間の集まりの中で人を指導していくわけで、へんてこな思想の持ち主では困るわけだ。かくして教会ではそういう困ったことを口にするような司教や神父は「教会でお話しするの禁止」「本出したりするの禁止」とかお仕事(聖務)停止などをして事実上軟禁状態か?みたいな扱いをしたりしてきた。

いずれにしても、ユダヤ問題というのは欧州ではすごーくトラウマ的なものであり、ユダヤ人に対しての罪の意識がすごくある。単なる政治思想を口にするとは違う次元であるようだ。このあたりの感覚は日本にいるとよく判らない。私もよく判らない。頭では知っていても感覚的なものとしてわからないのだが、日本人が持っている朝鮮(韓国や北朝鮮)に対する罪の意識よりも、もっと激しい悔い改め的な印象がある。これは欧州の長い歴史の中でずっとあり続けた問題でもあったわけだし。そして教会が俗に関わる以上、そうした問題は常に突きつけられる。

とにかく、大変に難しい問題であるなと思うのでまぁバチカンの出方を観察するしかないですね。

ところで他の3人の司教は和解したのでしょうか????
どうなったのかな?

あとアブラハモビッチ神父とかどうしたんでしょうか?


ま・ここっとさんも記事を書いてるんであわせてお読みください。
もっと詳しい情報がありますよ

■Tant Pis!Tant Mieux!そりゃよござんした。■
http://malicieuse.exblog.jp/10321534/
■ボク、教皇なんかに負けないもん。 L’évêque négationniste défie le pape

◆◆

ところで、ピオ10世会というのは第二バチカン公会議前に挙げられていたミサの典礼を大切にしています。といっても普通の世間の方々はどんなのかよく判らないと思うんですが、1962年に第二バチカン公会議というのがあって、教会ではものすごくいろんなことが変わったのですね。そのうちの一つにミサの様式の大変化がありました。ミサというとテレビや映画で見たことある人もいると思いますが神父が祭壇から会衆に向かってぶつぶつナニかやってるという感じです。んで第二バチカン公会議前は壁にくっついた祭壇に向かってなにやらラテン語でなにやらぶつぶつ言いながらやっていたんですね。壁にぶつぶつ言ってるわけですからちょっと根暗な感じですが、会衆と共に神に向かうみたいな位置。対面型は神父と顔合わすんで嫌いな神父の顔が見えたりして嫌とかあります。(まぁこれはミサには関係ないことです)

よく中世を舞台にした漫画なんかで今のミサの形式、つまり会衆に向かってミサを奉げているとんでもないのがありますが大間違いです。あれは20世紀入ってからの様式なんですな。皆様これから色々よく観察してみましょう。

さて、その壁に向かってやっていたラテン語で挙げるミサこそが真髄なんだ。新しいミサは全然ダメポ。ミサになってないと主張してるのがピオ10世会で彼らは16世紀に行われたトリエント公会議でピウス5世が制定したミサの式文こそが伝統的な正しいミサであると主張しています。

うちの師匠(教会法学者で且つ麗しいミサ好き)に聞いたところ、トリエント公会議でピウス5世が制定したミサ文書はその後少しづつ直され、1958年にヨハネス23世によって聖木曜日の式文のユダヤ人の改宗の為の祈りの文が取り除かれたと言ってました。現在、ピオ10世会はこの改訂版を用いているはずです。ですからほんというとヨハネス23世のローマ・ミサ典書という感じでピウス5世の名を冠するのはちぃと違うんではないか?という疑問を口にしていました。まぁピウス5世ミサVer.1.57=ヨハネス23世ミサとかそんな感じですかね?

どっちが正しいかなどというのは私にはまったく典礼学の門外漢ですから分かりませんが美しく厳かなミサならどっちでもいいとか思っちゃいますね。(といっても背面ミサなどちゃんと出たことない。垣間見たことはある)そもそもわたくしは物心ついた時には既に対面型ですから、知るわけがないんですがね。

あと、うちの師匠はラテン語がぺらぺらなので意味の方が先に判る為に「なんで典礼文のラテン語にこだわるのかよくわからん。そんなに現在の式文(新しいミサ典書)と比して美しいわけでもないよ」といってましたです。へぇ。わたくしはラテン語は昔の歌のぐらいしか知らないです。「イエスアラム語で話していたのに・・・」とか申してました。

ただ、新しいのがよいのじゃ〜と典礼破壊してる大馬鹿どもも嫌いなようです。ですから昔のミサがよいというのは別にいいのだが、殊更に変なこだわりを持つのもおかしいという考えな模様。祈りに満ち溢れてるんが大切だと。まぁそういうことですな。神に奉げるものは美しくなきゃね。
そういうわけで禁止されてるわけじゃなし、師匠にも背面ミサもやっておくれでないかいとリクエストしておきました。

まぁ、日本ではラテン語とかも禁止状態で、完全に典礼破壊方向に進み過ぎてどうしようもないですから、過去にこだわったり古い典礼にこだわる人が続出しているのは、過去を無かったもののようにしてしまった教会の偉い人にも責任があると思うので反省して少しは過去の遺産を見直したほうがいいと思います。

あと美術とか音楽をないがしろにしているのはいいかげんにしてもらいたいですな。カトリック大辞典と新カトリック大辞典を比べてみればそれがどれぐらいないがしろにされているか大変によく判りますよ。教会美術のこと調べたくても新カトリック大辞典ってまったくもって全然使えないんだよな。金返せ。

そういうことも含めていいかげん反省しろ。馬鹿者とかいいたくなりますな。