馬鹿珍VS中凶

バチカンと中国様の対決から、色々考えています。
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最近、pataさんがヘーゲルをずっと読んでいるんですが、あんなにすごい過激親父だったとは・・・。
そういえば昔「歴史哲学講義」とかいう本を読んだ時に東洋、特に中国を引きあいに出して語っていたんですけれど、とにかく「中国は成熟していない」だの、「孔子論語は無駄大杉だの」と、西洋の文脈マンセーっぷりに「うへぇ」と思った事がありました。その辺りを読んで「こんなかびた古臭い頭の西洋親父の本なんて読んでも無駄かも」と思ってしまいました。しかし今思えば、批判的な立場とはいえ、その批判内容はかなり的確な分析をしているのではないか?と思わない事もないですね。西洋マンセーなことは脇において置いても。
というのも、中国史の中での皇帝の役割が最終的に所謂「宗教」という自立した存在を赦さなかったというか、例えば仏教が根づかなかったこと、僧侶への尊敬の念の欠如等、それらは中国人にとっての宗教観として、国体=帝に基礎を置き、天の意志を反映する皇帝という存在が中心にあり、言わば政教一致の体勢が既に出来あがっていた。という光景を描いていたり、その性で多くの大衆が個を確立していない。つまり家族、或いは皇帝に連なる一つの塊の中に組み込まれている。「個」の在りようをそのように描写しているんですね。個が先に在りそれが集団形成を行うのではなく、集団が在ってはじめて個人がいるみたいな。
中国にとっての宗教観は儒教道教というものが既に習俗的にも、また思想的にも成熟しているわけで、今更、他の団体が登場しても、それは宗教的政体である皇帝の統べる国への反逆的存在にしかなりえなかったと。他方、中国の伝統的な文学、或いはさまざまな文化に目を転じてみれば、ヘーゲル先生は「迷信的だ!」と批判するそうした道教の習俗的なものを通じた独自の倫理観というものも存在していたわけです。傭兵が暴力振るいまくって国土を荒廃させていたような文明の歴史を持つヤツらから「迷信的」とかそんなことはいわれたくないよなぁ。
・・・・・・・ま。この筋で「日本」を転じて見るならば、日本の天皇制というのも日本の伝統主義的なものは、他の宗教を排除していく根はあるわけですが、とりあえずはそこんところを突き詰めずに共存させては来たといえるでしょうね。ただキリスト教的な概念に対しては、その文脈から危険性を見いだすのは無理はないかもとは思います。最終的に矛盾しますから。まぁそもそも人間世界は矛盾することが多いので、徹底して突き詰めずに余地を残すとか、目をつぶる度量が求められる側面も多い。日本が「寛容である」とされる時はその矛盾点を突き詰めずに飲み込む辺りではあると思いますね。
で、皇帝なきあとの中国様は「天命は中共に在り」という発想で伝統的な方法論で統治しているといえるでしょう。それはもうマルクス主義とも全然違う共産主義。だから中国の宗教団体嫌いというのは、近代の政治イデオロギーとはまったく関係ない、単なる伝統主義的な文脈であるとはいえます。
この点においては、中国の今の方向性も、日本の一部の伝統主義的な方向性も近いものはあるようには感じます。しかし相手の手法ならば客観的に見ることは出来るわけで、どこを危惧しどこは採択した方がいいか?判断の基準にはなりますね。
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uumin3さんが紹介してくださったブログ
http://geopoli.exblog.jp/4567828

彼ら自身の「共産主義」というものも、ある意味で宗教ですし、そういえば民主主義なんていうのも核にあるのは「アイディア」ですから、宗教といえば宗教です。

ところがここで大事なのは、彼らがもっとも恐れているのは、「物質ではなくて、アイディアである」という部分です。

中国が昔からプロパガンダが非常にうまいということはここでも何度か触れましたが、逆に言えば、彼らは自分たちがプロパガンダにたけているだけ、宗教のもつプロパガンダにも非常に敏感なのです。

日本人の場合は、「プロパガンダに対抗するためには事実や物的証拠をとにかく示していけばよい」と優等生的に考えてしまいますが、これは完全にブーです。

なぜなら極論すれば、プロパガンダというのはプロパガンダでしかつぶせないからです。

中国共産党政府がバチカンと仲が悪いのも、いや、すべての宗教団体と仲が悪いのも、「中国はプロパガンダで成り立っている国だ」ということを肌で感じてわかっているからです。

その民衆を「信仰」という別の熱狂的なプロパガンダで奪ってしまいそうな宗教というものは、本当に怖くてどうしようもない。

ここの最期の一文については少々異論がありますね。(唐突過ぎて、どういう文脈なのかは少々判らないのですが字義通りに一応解して)
宗教そのものが怖いのではなく、むやみに信じる馬鹿、客観的に相対的に考えられない馬鹿が怖いとは思います。(そういえば、そもそもプロパカンダとは宗教用語ではあるなぁ・・・。苦笑)
しかしこういう「宗教怖い」「宗教は悪い」プロパカンダも怖いです。単純化ほど怖いものはない。ある特定の価値「アイデァ」とは誰しもが保有するものに過ぎない。プロパカンダは手法なんであって、現代という時代においては宗教のみに存在するものでもなく、日常あらゆるところにある。ここでは「宗教=悪」というプロパカンダに毒された判断で物事を見ている光景があるなと。その辺りは自覚しているのかは疑問には思いました。
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さて、そういうわけでバチカン中共様対決。
さまざまな文脈から、何故、中国様が宗教団体に異様に抵抗感を示すのか?という理由というのは理解出来ましたが、他方バチカン側からの怒りについて。
もともと、バチカンというかカトリックというのは世俗から自立した世界を保有しようと、世俗権力との闘いを繰り返してきた歴史はがあります。有名な「叙任権闘争」ですね。これはかなり特集な立場ではあると思います。教会の人事に関して世俗領主が勝手に任命し、好きなように振舞って教会が腐敗していったという苦渋の経験から、教皇が司教の任命権は教会側にのみあるとしたのですが、他の口うるさい権威が統治の世界に入り込む、干渉されることを嫌う皇帝や王にとっては不満の嵐。かくしてまぁ聖と俗とは延々闘ってきたわけです。つまりヨーロッパは政教分離の素地が既にあったのですね。しかし、宗教を特定の政治権力に利用させない為の措置とはいえ、教皇庁も一つの権力となったためにこれまたややこしい歴史が生じてはいくわけですね。
いまや、そういう時代でもなく政教分離というのはなんとなく行われてきた。しかしここに来て中国様と叙任権闘争が起きるとは。べね16もびっくりの事態ではあったでしょう。昨今ではあまり見ることの出来ないような激しい怒りを見せておられるようです。

▼中国の司教任命に抗議 バチカン
http://www.asahi.com/international/update/0504/011.html
2006年05月05日00時35分
 中国政府公認のカトリック教会「天主教愛国会」が独自に中国人司教2人を相次ぎ任命したことについて4日、バチカンのナバロ報道官は声明を出した。カトリック教会でローマ法王のみが持つ司教任命権を無視したことに強く抗議する内容で、中国とバチカンによる外交関係復活への動きが後退する可能性もある。

 声明は、愛国会が先月30日と今月2日に行った中国人司教2人の任命について、「教会の生命にかかわる行為」「宗教の自由の深刻な侵害」などと非難。「バチカンは様々な機会で、中国当局と誠実かつ建設的な対話の準備があると繰り返してきたが、今回の行為は対話のために好ましくないばかりか、その障害となる」としている。

 バチカンと断交状態が続く中国は、法王による司教任命を「内政干渉」として拒否しており、関係修復の主要な問題となっている。

中国が「内政干渉」と抗議するのは上記に説明していった叙任権も問題から考えてもおかしいのです。寧ろ逆で教会政治に対し中国が内政干渉しているのです。(ここで中国は「中国において信教の自由はない」ことを明言したといえます)ですからこの場合は中国側が一方的に話しあいの梯をはずす行為をしたといえるでしょう。対話を考えていた矢先の出来事ゆえに、もっとも踏んではならない地雷を踏んでしまった中国。無知なのかワザとなのか、とにかくべね16は「ぼぼぼ冒涜じゃぁ」とお怒りのようです。
参考↓

○■Tant Pis!Tant Mieux!そりゃよござんした。■
http://malicieuse.exblog.jp/4583465
【冒涜による破門】ドグマ大使、現る。
世界で一斉報道された4日以降、日本語の記事を電脳域で読んではいますが、
ローマ法王庁は4日、「宗教の自由への重大な侵害」と非難する
声明を発表した。
▼声明は、任命を「宗教の自由への重大な違反」と非難している。
なんて文を其処ココ彼処で見ましたが、この記事の元はおそらく5月5日付Radio Vatican (ラジオ・ヴァチカン)の記事でしょう。
Le Saint Si?ge parle d’une grave violation de la libert? religieuse. Jeudi, le Vatican a condamn? tr?s fermement l’ordination de deux ?v?ques chinois qui se sont d?roul?es sans l’aval du pape.
おそらく「重大な侵害」やら「重大な違反」にあたるのは赤字部分で、grave は「重大な」でヨシとしますが、violation というのは「侵害」でも「違反」でもありません。violation というのは日本語に訳すと
(聖なるものの)冒涜 ぼうとく
という意味です。初級の仏和辞書にだってはっきり書いてあります。かつてヴァチカンのドグマ(教理)大臣であらせられた現教皇ベネディクト16世は中國におけるこのようなショウに激怒され、「冒涜」認定。故にこのショウ参加関係者を破門しました。ラジオヴァチカンの公式HPではっきり「冒涜」と書いてあるのに日本語で「侵害」「違反」と印象柔らかく訳すのも何か理由や都合があるのでしょう。そして日本のマスコミ各社のこの記事の〆でございますが、

ここで教皇が語ったgrave violationという言葉は「(法に)背く」「(家屋等への)侵入、無理やりこじ開ける」という意味もあり、訳語として「重大な侵害」「重大な違反」でも間違いではないです。しかしニュアンス的にはやはりかなり強い意味にはなるでしょうね。たんなる「約束破り」的なものではない。[これはひどい]的なニュアンスがあったりすると思います。ここでの教皇の怒りは、皇位継承問題にまつわる皇族からの不快感に近いものがあるかもしれません。
ただ日本でいきなり「冒涜」という言葉を用いるには少々印象として違和感を感じる人も多いのではないか?とは思います。やはりある程度の前知識がないと「冒涜」という言葉は独善的に映るでしょうし。
参考までに日本のバチカン放送局の訳文

教皇、中国における一方的な司教叙階に深い遺憾の念
http://www.radiovaticano.org/japanese/japnotizie0605a/japcronaca060504.htm
(2006.5.4)
バチカンのナヴァロ・ヴァロス広報局長は、先日中国で2人の司教が教皇の同意なしに叙階されたことに対し、教皇庁側の強い抗議を表明した。

これは、先月30日に雲南省昆明で馬英林神父が、また今月3日に安徽省蕪湖で劉新紅神父が、教皇ベネディクト16世の委任を受けることなく司教に叙階されたことを受けたもの。

声明は、教皇がこの叙階の知らせを「深い遺憾の念」をもって受け取られたことを明らかにし、司教叙階という教会にとってかくも重要な行為が、どちらの場合においても教皇との一致の必要を尊重することなく行なわれたことを非難。これは教会の一致に深い傷を与える行為として、教会法で定められた厳しい制裁を見通すものであるとしている。

また、広報局長は、バチカン側が得た情報として、司教らと司祭たちは、教皇の同意がないゆえに非合法であるこの司教叙階式に、彼らの意思に反して参加するよう、教会外の組織の強い圧力と脅迫を受けたこと、そして多くの司教らはこれを拒絶し、一方幾人かの司教らは内心の苦しみと共にこれに従わざるを得なかったことを挙げ、このような出来事は、カトリック共同体だけでなく、良心の傷となるだろうと述べ、宗教上の自由の重大な侵害であることを強調した。

一方で、教皇庁は今では過去のものと思われていたこれらの遺憾な出来事を念頭に置きつつも、中国におけるカトリック教会の苦しみに満ちた歩みを見守っていく姿勢を確認、改めて外部のあらゆる干渉からの教会の自由と自主性を訴えた。

そして、声明の終わりには、教皇庁はこれまで様々な機会に中国当局との誠実で前向きな対話の用意を主張してきたが、今回のような行為は対話を推進するどころか障害を生むだろうと述べている。

上記でも「重大な侵害」という言語が採択されてはいます。とはいえ、この文全体から感じられる印象は、昨今では珍しい異例の強い怒りを感じますね。やれやれ。困ったことです。

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さて、私個人の見解ですが、叙任権がどうこうとか冒涜がどうとかよりも、これらの問題の影には中国政府による多くの宗教者への弾圧(虐殺も含む)つまり人権問題に関わることがあり、いくら宗教嫌いが中共の伝統的な政治のあり方とはいえ、現代の価値からは犯罪的な行為が起きているのですからやはり批判されて当然ではあるでしょうし、またそれら迫害されている人々のことを懸念します。バチカンと中国の歩み寄りはそれらの人々の問題の突破口になるかと期待はしましたが。
しかしこの辺りに関して日本のマスコミがあまり報道しないのは不思議ですね。特に人権問題に五月蝿い団体がなにも言わないのは謎です。>正平教とか。(身内や宗教家達が迫害されていても沈黙するが、日本の政権批判や伝統批判には忙しいようです)