マリアの奇跡

先日、チビタベッキアのマリアの奇跡について書きました。
カトリック教会のこの手の話はよくムーなどといったオカルトネタ満載の雑誌に取り上げられますね。聖母マリアにまつわる奇跡譚は近代以降出現や予言などと一緒に語られる事が多くなったようです。ファティマやルルドなどが有名で、ルルドに関しては19世紀末のフランスの作家ユイスマンス自然主義独特の視点でその記録「ルルドの群衆」を残していますが、微妙に距離を置いた冷静な表現で読みごたえがあります。
わたくし自身はこの手の話を聞くと「先生!強烈な電波をキャッチしました!」と思ってしまうし、予言話や出現、奇跡を嬉しそうに話す人に出会うと、「馬鹿かね?君は?」と言いたくなる気持ちを抑えるのに苦労します。しかし奇跡というものは存在すると思うので、そうしたものを完全に否定してもいけないとは思っております。
そもそもわたくしはマリア崇敬自体にも感覚的に馴染まない。これをいうと人によってはとことん批判されますが、つまり「それではカトリックじゃない」とか。実のところ、思春期は「マリア様」が嫌いでした。シスター達は「マリア様を模範に」などと申しますが、良妻賢母的であり、出過ぎない、昔ながらの女性の鏡である理想像を押し付けられることに思春期独特の感性で反発しておりました。寧ろマグダラのマリアの方に親近感を持っておりましたね。今も立派な息子を持ち(死んじゃったけど)、優しい旦那を持っていたこの女性にはあまり親近感は湧きません。世にいう負け犬の立場からすると、聖母マリアは勝ち組なのです。マグダラは負け犬でしょう。わたくしは後者です。*1
しかしカトリック教会が何故マリアを教会の母としたか、マリアを何故崇敬するに到ったのか、人に勧められて神学者達の読み物を読んでいくうちにおぼろげながらつかめて参りました。特にシトー会の聖ベルナール。彼は聖母崇敬に大変に寄与した方ですが、彼の書き物を読むと、聖母の体験した物語を通じてイエスという存在をより確かなものとして自分自身に受け止めていく感覚を得ることが出来ます。マリアはイエスの生涯全てを通じた目撃者であったのですね。これらは観想修道会ならではの深い祈りによって培われた感覚だと思うのです。非常に静かな祈りの中の存在です。その静寂の中でマリアを導き手としてイエスと出会うという祈りでしょう。
私自身は在俗のフランシスカンで、中世オタクですから、このような中世の霊性(中世の手法や思想)には馴染むのですが、近代的なマリア崇敬のスタイルに馴染まないのです。マリア崇敬に絡む出現や予言の扱い方は非常にエモーショナルでまさに近代的スタイルだと思います。特に教義の決定に関わる事などをマリアがべらべらとしゃべるという光景に私自身は自分が考える静寂のマリアとは異質なものを感じてしまうのです。
しかしこれらの違和感は私個人の感覚に過ぎません。以前、司祭に「マリア崇敬がどうもできないのですが」と相談しました。そして上記の事を話したら「それはそれでいい。人の信仰の有様を否定しなければいい。」と言われました。「神と個人の関係は誰も入り込むことは出来ない」ということです。カトリック信者の幅が異常に広いのはそのような互いの感覚的距離を認識し受け止め合っていることにあるのかもしれません。
というわけでチビタベッキアのマリアに関しては「きも〜〜っ!!!!!」という感想以外の何ものでもないですが、なんとなく一度おとづれてみたい気はしております。件の変なモノ好きな編集者と、そいういう半ば迷信めいた聖母や聖人の研究者T女史と、あやしい系を目撃しに行こうよ。と前から約束しておりますが、いつ実現するのかなぁ?わたくしはレンヌ・ル・シャトーとパードレピオとメジュゴリエは目撃しに行ってみたい。ユイスマンスのように事細かくあれこれ観察して楽しみたいですね。

*1: 以前、教会のパソコンの業務上のIDをナニにしようか悩んでいた時に、「マグダラはどうか?」と勧められた。なんとなくむかついた。イエスを慕う独女????あ〜やだやだ。