聖なるものの顕現

uumin3さんが以下のエントリで「顕現」についてずっと書かれています。

[宗教] 光のマリア 
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050705
[宗教] Mary of Light with Matins Processions 
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050706
 [宗教] 顕現の背景と守護聖人
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050707

カトリック文化の中でもっとも怪しい、理性的であることを自認する現代人にとって受け入れがたいムー的な、と本的な、抹香臭くてたまらん、そしてプロテスタントの人に「偶像崇拝」とか「異教的」とののしられ、正教会に「やりすぎ」と怪しまれる「マリアの予言」とか「マリアの出現」とやらにまつわる話です。

正直わたくしはこれ系が苦手です。「ファチマの予言がどうたら」などといわれたら「そんなんマジに信じてるの?馬鹿か?」などと一蹴してしまうような人間です。理性的を自認しているからではなく、生理的に合わないだけですが、カトリックの中にはマジにこういうのを大切にしている人もいます。まぁ裾野が広すぎというかいい加減というか、どんな信仰の形もあり。というのがカトリックなわけです。

こうしたマリア崇敬や聖人に関連する話は竹下節子さんが詳しいですね。

聖者の宇宙

聖者の宇宙

竹下さんには賛否あるようですが、これ系のことを多少突き放した視点で書かれているので読みやすい。信仰者の視点からですとこういうのも。

高橋たか子さんは文学者で、非常に主観的に捉えた視点で巡礼地を描いています。竹下節子さんも、高橋たか子さんもカトリックの信者ですが(高橋さんは修道女として一時期は過ごしていたことがある)、同じ土地で同じものを見ながら捉え方や表現をする手法にこのような差異があるのが面白い。それぞれの霊性の違いなんだろうと思います。

さて、「顕現」
こういう奇跡譚というのは宗教に付き物です。どんな宗教にもなんらかの形で奇跡の物語はあります。「ヴィジョン」というのはその一つの形であり、実のところそれは日常的にあるといっても過言ではありません。

昨日のエントリで師匠であるところの濱ちゃんに司祭になった動機を聞いたところ涙ぐんだ話をしました。およそふてぶてしい人なので普段そういうことを聞くと人を喰ったような答えしか返ってこなかったので、本音を聞いてこっちが慌てふためいてしまいました。・・・というのも以前聞いた表向きの動機たるや「朝ミサをしたあとは昼寝をしている。夜は酒を飲んで寝ている。という司祭の姿を見ているうちに、なんとなく朝早く起きて車を沢山売っている僕ちゃんの仕事が馬鹿馬鹿しく感じてしまった」というものでしたから。しかし、酒を飲んでもらした動機は、「神の声を聞いた」「ヴィジョンがあった」というジャンルのものだったんですね。ただの電波と侮ってはいけない、彼自身それは酒を飲まないと話せないくらい大切なものだったようなので「飲ませて悪いコトしたよ・・・」と、少し思ってしまいました。それぐらい信者にとって神との関係はナイーブな私的な個人的なものなのです。
わたくしは予言を聞いただの、ヴィジョンを見ただの声高に言う人がいると、どうも抵抗を感じてしまうんですが、それはそうした神秘を見た自分というものへの陶酔と虚栄のほかに、個人のものにとどめ置かず共同のものとしたいという押し付けがましさを感じなくもないからです。神秘を味方につけられるとぐうの音が出ませんからね。だから預言を伴うものだとは特に警戒してしまうのです。

ですが、大衆無意識の具現という形をそこに見出す場合もあります。特に混乱期にある時には神秘を味方につけたメッセージは何よりも安心感を得ることになるでしょう。最近では、理性化しすぎる、リベラル化しすぎる傾向に対抗するかのようなメッセージを伴ったどローカルなマリア出現などが目立ちますが、わたくしにようなひねくれモノは素直に「おお!予言だ、ありがたや〜」などと聞くことはないですが、そこに一遍の大衆側の無意識を反映した希望などを見出すことはあります。だからマリア崇敬にまつわる一連の奇跡を頭ごなしに否定をする気もないですね。

奇跡譚というのは西洋ヨーロッパの伝統的に存在したもので、色々な民間伝承などもあります。またそれを逆手に取った小話など、ボッカチオの「デカメロン(十日物語)」やサケッティの「三百物語」などの当時の小話集などにも、聖人や天使というものが身近にネタになって息づいているのを知ることが出来ます。ボッカチオなどにいたっては、「受胎告知の天使ガブリエルに扮した間男」というとんでもない設定のものまで出てきますが、それぐらい身近な隣人としての聖人や天使のいる世界というのが彼らの豊かな想像力を育んでいたとは思います。
実際の聖人、例えばuumin3さんも挙げておられますが、例えばパドヴァの聖アントニオ。彼はひじょうにヨーロッパで人気のある聖人で、南ヨーロッパの聖堂に必ずといっていいほどよくいます。幼子イエスを抱き、百合の花を持つフランシスコ会士として表現されています。彼にまつわる奇跡話は多いですが、大衆側も過度に奇跡を要求し、その奇跡をかなえてくれないなら「お前をその場から引き摺り下ろし、どぶに突っ込んでやる」などと脅したりする人もいたようです。実際、願いをかなえてくれないために罰せられた像というのもあったようです。その奇跡物語や、また彼にまつわる聖人伝はロマンチズムに満ち溢れたものですが、実際の彼はこんな人↓

http://iulianus.exblog.jp/2928607/
フランシスコ会に入会したといっても,フランチェスコ自身とあったのは,という
よりも正確に言えばフランチェスコを見たのはただの一回だけだと思われる。おそ
らくは1221年のいわゆる幕屋の集会だけである。それ以外、歴史的事実として確認
されるフランチェスコとアントニオの接点はない。また,アントニオはフランチェ
スコの側近の一人であったエリアとはおそらく対立していた。つまり,フランチェ
スコの伴侶といわれる人々あるいはアッシジのクララとは対立していたと思われる。
アントニオは総長ヨハネ・パレンティや後にエリア総長解任の際の主役であるファ
ヴァーシャムのハイモらとともに,フランチェスコの「遺言』の法的拘束力の問題
およびフランチェスコの遺体の移送の際のエリアの行動を訴えることなどのために
1230年に教皇グレゴリウス9世のもとへ行っている。アントニオ自身、フランチェ
スコについてまったく沈黙を守っている。彼の現存する説教集にはフランチェスコ
への言及は一言も含まれていない。少なくとも彼の説教集はフランチェスコの列聖
後に書かれているのであるから,言及することはできたはずであるが,そうはして
いない。
(中略)
おそらくアントニオの実像は「魚に説教をする」というようなのどかなイメージより
もむしろかなり現実的な政治的な人間というイメージなのかもしれない

ユリアヌス先生は、教会史が専門で、しかもフランシスコ会という修道会の歴史などを研究していたりするので、アントニオ様にまつわるロマンではなく史実はどうであったかを探求しておられます。実際フランシスコ会という修道会の歴史は、キリスト教の歴史と似たように、派閥争い、主流派と傍流の確執というものを体験しながら、フランシスコという人の伝承や彼らを取り巻く人々の伝承までもがそれらの人々のフィルターによって歪められていったりしたのですね。そういう線上にアントニオという人もいるわけです。
ところが大衆はそんな史実はお構いなしなわけです。彼らの好むように聖人は本人を離れた虚像として一人歩きをし、それが生き生きと大衆の中で存在し続けるわけです。原点主義、あるいは実証主義的な視点からすると眉をひそめたくなる現象でしょうが、わたくしはここに大衆化した宗教の持つエネルギーの面白みを感じますね。
アントニオ様はその聡明な神学者としての彼よりも、奇跡譚に見るのどかなイメージを皆が愛するという光景のほうが実は健康的なのかもしれません。わたくしは彼を守護聖人に抱いておりますが前者の「聡明」より後者の「のどか」を受け継いでしまった気がします。のどか過ぎるので、すこし人生に真剣にならないといけないと反省したりしています。
最近は不景気で、イラストお仕事がぜんぜん来ないのですごく貧乏になってしまいました。「月収200万ある」などと聞くと大金持ちな人だと思ってしまいます。ですので焦らないといけないのですがアントニオ様のせいなのか、天性の性分なのか呑気に構えすぎている自分がいけないと思います。真面目に営業したり夏休みのバイトでも探したりすることを最近決意してみました。。