昨日に引き続き清志郎の思い出をだらだらとするよ


お別れは突然やって来て、そして、いつものようになにげない島の朝は知らん顔をして明けるのであった。
昨晩、一晩中、ほこりを被っていたRCサクセションのCDを聞きまくっていた。昨日書いたような事情からなんとなく封印していたいくつかのアルバムを久しぶりに聞いて、懐かしい昔の記憶があれこれ蘇ってくる。様々なブログで思い出が語られて、同じような別れの体験をした人や、同時代に体験していた人の話をあれこれと真夜中に読んで泣いた。

忌野清志郎というキーワード繋がりで読んでいた中に渋谷陽一のブログを発見した。
渋谷陽一の社長はつらいよ
http://ro69.jp/blog/shibuya.html?2009/05/03#a20333
渋谷陽一も訃報のショックは大きかったようだ。絶句している気持ちがよく伝わってくる。

渋谷陽一といえばLedZeppelinの馬鹿のつくファンで彼の雑誌『ロッキン・オン』のZEP記事の多さは他の追随を赦さなかった。高校時代、同じようにZEPファンであったわたくしは当然この雑誌のファンであった。今でもバックナンバーは実家にとってある。
その渋谷陽一がDJをしていたNHKサウンドストリートもかかさず聞いていて、特に大晦日、年越しにやる渋谷陽一のロック大賞は大掃除しながら聞くという年中行事化していた。
ある年、日本のロック部門かなにかで他を大きく引き離して一位に輝いたのがRCサクセションであった。10数年の不遇の時代からやっと勝ち抜いた栄冠であった・『雨上がりの夜空に』によってようやく多くの人々がRCサクセションに追いつくことが出来たのが時代が高度経済成長の超点に達した1980年であった。
その後サウンドストリートにゲストでやって来た忌野清志郎があまりの寡黙さというか取りつくしまのなさに渋谷陽一を困らせていたのを覚えている。別に気取っているのではなく、なんつーか、話すのが苦手。好きなブルースの話しならするが、自分の事を話すとなるとナニやらずれた反応しか帰って来ないので仕方がなく渋谷が一方的に話す羽目になり、あとで散々ファンから文句が来たらしい。
その時の放送がなんとNHKアーカイブにあった。
当時のラジオ放送が聴ける。凄い時代だなぁ。
http://www.nhk.or.jp/my-fm-days/

この放送は覚えている。清志郎の「変なキャラ」はこの時記憶された。流ちょうにしゃべることは出来ない。DJ泣かせ。「歌謡曲が嫌いで、日本の歌謡界に殴り込みをかけたい」といったことをボソボソと話す。話すと大人しいのだが中身はパブリック・イメージ・リミテッドのジョン・ライドン並に過激。というキャラが記憶された。

この後も懲りずに渋谷陽一は何度もゲストに招いていた。もっと話してくれるといいんだけどね。困った人だとかぶつぶつ言いながらも同世代的な気安さがあったようだ、或る年のロック大賞の時にもゲストでチャボと来ていて、渋谷陽一がとちると「おい、どうした?渋谷君?」などとからかっていたのを覚えている。

この、ラジオのしゃべり向きではないが醸す空気はすごく変なキヨシローがテレビに出ることになった。もうなんの番組かすら覚えていないのだが、とにかく余りにも話さず、相づちを打つばかりで、尚且つ口を開いたとしてもおかしな感じのことしか言わないので、テレビの中の人が持て余していたのを腹を抱えて見ていたのを覚えている。テレビの歌謡番組のちゃらい空気がすごく嫌いであるのにのこのこと出て来るという辺りもキヨシローの面白さではあったのだが、テレビ側が懲りたのかテレビに出る事は少なかった。

RCがブレイクした頃、幾つも和製ロックバンドが登場し活躍していた。シーナ&ロケッツYMOハルメンズヒカシューゼルダ・・とまぁベテランから新人まで色々登場した、覚えているのは『突然段ボール』という凄い変な名前のバンドでNHK横浜のスタジオでライブを聞いた覚えがある。ニューウエィブが音楽シーンを席巻し、糸井重里が提案する「おいしい生活」っぽいバブル空気が世間を席巻していく中でRCとこのバンドはなんとなく変で武骨な「漢」なバンドとして記憶されていた。世の中のちゃらい空気がどーもなぁ。という中で親近感を覚えていた。当時、気持ちにパンク入ってたしな。この時代にバブル意識を身につけていればこんな下流にならずに済んだかもしれない。

同じような時代を経験したゲームクリエイター斎藤由多加が当時の事を振り返っている。
斎藤由多加の個人ブログ
http://yoot.typepad.jp/blog/2009/05/rc-b07a.html
忌野清志郎さんのこと RCサクセションのこと 学生時代のこと

斎藤由多加さんはシーマンの生みの親。シーマンにはお世話になりました。育て上げたこともありますが、すっかり忘れて放置して死なせた事もあります。「憂歌団」のファンクラブの会長をしていたとはなぁ。

ここで語られているRCサクセションメンバーの真面目さが、わたしが気に入っていた一つでもありましたね。過激なのに真面目。坂本龍一は信用出来ないが、清志郎は信用出来そうだ。なんせがっこの尊敬する先生に「ロッカーは結婚するな」とかなんとか言われ、それを律義に守りっており、不遇時代からずっと付合っていた女性と結婚したのは、この先生に「もういいよ」と言われてからというのだから、なんつーか馬鹿のつく糞真面目なエピソードの持ち主である。先生もまさか守り続けるとは思っていなかったんだろう。

この恩師も葬列に出たという。
都立日野高校。ここ出身の友人がいるが、そいや彼も破滅的なのに根がトンでもなく真面目過ぎ、結婚出来ない馬鹿者である。そういう気風があるのかな?

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昨晩からずっとアルバムを聞いているが、清志郎関係で最後に買ったのは『メンフィス』だったと思う。細野晴臣坂本冬美とのユニットHISとどっちだったか。RCのラストアルバムのあとだったと思う。

Memphis

Memphis

ブルースを愛する清志郎がメンフィスの思いを書いた唄が入るアルバム。タイトルもメンフィス。
晴れて僕の好きな先生から許可が下りたので「石井」さんと結婚することが出来た清志郎はこのアルバムで自分の子供の唄を歌ったり結婚生活的な詩を歌ったりしていたので、昨日書いた病身の彼は自宅療養中の身で「もう清志郎は駄目だ!守りに入った!」とぶりぶりベットのうえで怒っていた。彼はその年の終りに死んだのだが、自分が子供も結婚も出来ない、既にそこで終る未来を予見していたから悲しかったのかもしれない。が、清志郎としては「そんな事言われても困ります」だとは思う。ただ、糸井重里と造った「パパのうた」とか「なんか親父になっちゃって・・・あっちに行ってしまったなぁ」感はあった。
彼が死んだあと、こういう一人のファンがいた事を清志郎に知って貰いたくてファンレターを書こうとした。しかしどこに送っていいのかよく判らなかったのと、それを調べる気力が起きなかったのとで、結局、送ることはしなかった。書いた手紙はどこかに行ってしまった。
今はこうしてブログがあるからいいね。記憶することが出来るからね。

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ところで、上に紹介した渋谷陽一のブログで闘病中の清志郎がファンクラブの会報に「宗教関係の本を送ってくれる人がいるけれど、そうしたものは必要ないので送らないでいい」と書いていたというので笑ってしまった。

だってこんな曲造っていたんですぞ。

あ、清志郎じゃなくて「お友達のゼリー」君か。