島雨に、渋谷陽一の忌野清志郎追悼本を読んだ

島は梅雨まっただ中で空梅雨状態が続いていたのがついに4日前ほどからどかどかと雨が降り注ぐ日々が続く通常の季節の相貌となった。真夜中に雷がどすんばたんとやっているので眠れず、仕方がないのでぱんぱんと海に落ちる稲光を眺めて珈琲を飲んでいたら余計に眠れず、やっと人並に朝ちゃんと起きて仕事をする生活サイクルになっていたのがもとの木阿弥であった。
そんな雨続きも本日は小休止で晴れている。なのでまた午前中に起きて仕事した。
そういえば雨が降りはじめた日になぜか島に村上隆がいらしていて、雨が止んだ今日、帰って行った。彼はアメフラシ体質なのかもしれない。美しき輝ける海を観ずに帰るのは気の毒である。懲りずにまた来て欲しいものだ。


そういうわけで、雨に薄暗い島生活を過ごしていたのだが、BK1から本が届いたので読んでいた。佐川とかは島嶼部を除くようなサービスをするんで使えないんで、Amazonとか氏ねやと思うのだがBK1はどこにでもお届けする根性がすごいヤマト運輸を使っているので助かっている。BK1頑張れ。
ベトナム人作家の本とか色々届いたのだが、愉しみにしていたのはこれだ↓

忌野清志郎1951ー2009 ROCKIN’ON JAPAN特別号

忌野清志郎1951ー2009 ROCKIN’ON JAPAN特別号

ロッキングオン社が出した清志郎特別号。渋谷陽一の社長ブログで予告されていたのが月の頭に出版されたのだな。追悼の為に出されたのだが、追悼号とせずに「特別号」と銘打ったところに、渋谷をはじめとしたロッキング・オン社の姿勢が伺える。


わずか一月で出版に到るまでのスピードはおそるべし。内容はまぁそのスピードによる限界があったであろうシンプルな造りではあったが、逆にそのシンプルさがロッキングオンの伝統を懐かしく思い出させる。『Rock'n on』は1970年代後半から読んでいて、『Rock'on JAPAN』とか出た頃にはすでに『Rock'n on』の読者ですらなかったので久しぶりにこの出版社の本買ったよなって感じでしたです。はい。
昔のRock'onというとミュージシャン情報はインタビューが中心でそれ以外はライターが勝手にミュージシャンを出汁にしてただの俺様の語りを書きなぐっているというすごい変な雑誌であった。音楽に関しての具体的な事はインタビューとアルバム評と言ういたってシンプルな姿勢。まぁ音楽評論雑誌と呼ぶには音楽をもっと語れよと言いたくもなるような造りではあったがそれが面白くて読んでいた。音楽自身については音楽やってるミュージシャンのインタビューで充分ではないか。という姿勢がありありと伝わってくるような印象で、その代わりインタビューは他のロック雑誌とは比べ物にならないぐらい面白かった。

ほとんどが洋楽でというか洋楽しか扱っていないような雑誌だったのだが、RCサクセションがその伝統を破った。この特別号でもRock'onの表紙を飾ったはじめての日本のロックグループであったという事が記されている。その表紙の号は実家の雑誌堆積場に眠っている。懐かしい。

RCサクセションの存在を知ったのは渋谷陽一の音楽番組であったという事は以前書いた。
渋谷が語り過ぎて、清志郎やチャボは合いの手を入れるような感じだったのだが、この特別号のインタビューでもその構図は相変わらず健在で、清志郎自身は「ロンドンに行って変わった。ちゃんと話すようになった」と言ってるが、たいして変わっていないと思う。

この特別号の構成は清志郎の言葉を通じて語られるディスコグラフィになっていて、渋谷が清志郎相手に評論を加えていく事で、彼のRCサクセション時代からソロアルバム『KING』に到るまでの歴史を振り返る事が出来ると言う秀逸な造りになっている。「追悼」的色彩は巻末にあるチャボと坂本龍一によるインタビュー、そして各関係者の言葉というくらいで、比重としてはやはり清志朗自身が語る歴史が主。「後ろ向きのセンチメンタリズムは彼には似合わない」と渋谷は社長ブログで語っていたが、そういう意識を反映させているのはよくわかるし、これが文字メディアとしての最良の追悼になるだろうとは思う。尤ももっと大量にあったであろうインタビューが読みたかったが、まぁそういうのはそのうち出るんじゃないか。期待したい。

改めて清志朗によって語られた自身の音楽史から、RCの事実上の解散後の彼の音楽の足跡を追ってこなかった事を反省した。とはいえ、まぁ個人的に離れた事情が事情なだけに清志朗のみならずあらゆるロックミュージックからなんとなく距離をおいてしまったので清志朗のソロアルバム『メンフィス』やタイマーズ活動やHISの性ではないんだが。RCサクセションの初期のアルバムで最高の名盤とファンの間で言われている『シングルマン』の音に回帰したであろうと思われるその後の音楽を聞いてみたくなった。確かにソロアルバム『レザーシャープ』での音はそういうのを思い出させるモノであった事をなんとなく記憶する。(記憶というのはこれを塩ビの黒いのでしか持ってなく実家の部屋の四次元に腐っているからで既に記憶の彼方であるから)まぁあれはバックがすごいからなぁ。ブロックヘッズだよ。イアン・デューリーも癌で死んじゃったんですよね。

そういうわけで、オカダ氏に勧められた『夢助』とインタビューにあった『KING』は次回購入候補とする事にする。

渋谷陽一は『KING』を清志朗がRCサクセションという過去から解き放たれたアルバムとして評価していた。あまりに有名過ぎるグループのバンドマンとしての過去に囚われていたと渋谷は評している。清志朗はそっかなぁ?という印象ではあったようだが、得てして作り手と評価する人の距離感というのはこんなもんだろうなぁとは思う。そして意外と他者の目の方が本質を言い当てている事もあったりはするんだが、果たしてどうなんだろうか?音を聞きくらべて観ないとその辺りは分らない。

改めてインタビューを通じて感じるのは清志朗の言葉に対する感性が、評論的それではなく「預言者」的な箴言的なものであるなということ。言葉の力を信じているが、同時にくだくだと解説はしない。解説する言葉を信じていないし、彼はなにかを説明しはじめると話を勝手に造ったりするので時々以前と言ってる事が違うっていうような事も多い。その辺りをインタビュアーの渋谷は永い付き合いの間に承知していて、そういうわけで彼の「声」を引きずり出すのは巧みだなとは思った。

清志朗の「言葉」に対する感性については以前も詩集『エリーゼのために』について書いたエントリで触れた。彼はあたかもブログを書くように唄を紡ぐ。無口ではあるが、唄では冗舌であり、そして音楽に乗せた言葉ははっきりとごまかされることなく発音されていく。

こうした「言葉」について面白いエピソードを爆笑問題の太田が語っている。それを紹介したブログ記事があった。

爆笑問題・太田が語る 「忌野清志郎との出会い」 -世界は数字で出来ている
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-514.html

「選挙なんかで政治や世の中は変わらない。投票率が低くても構わない」などとどっかに書いた太田光の言葉に清志朗が怒って対面の面会を求めたという話。で、なんと約束した喫茶店に「ほら貝を吹きながら」現れた清志朗は太田に「影響力のある君があんな事を公言してはいけない」と「ほら貝をふきながら」諭したらしい。

なんで、ほら貝なんだろうか?ほらを吹きながらまともな事を言うという、クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言ったみたいな変な光景でもあるが、偉そうな事を言うにあたっての照れ隠しらしい。

このエピソードからも判るように「言葉」というものをマスで語るということについての責任感という事を清志朗はすごく持っていたようだ。オーディエンスと太田光という「アーティスト」の関係性を看過することが出来なかったという構図や、なにかを語る時は楽器を手にせずにはいられないあたりとか、まぁ「言葉」への距離感がよく判る。


特集号の話に戻すが、巻末のチャボこと仲井戸麗市坂本龍一のインタビューの対比が面白かった。
チャボは永い付き合いで家族みたいなもので労苦を共にした間柄でもあり、その心痛のほどが伺えるインタビューであった。清志朗以上に不器用でもあったチャボの言葉には心打たれるものがある。その点、坂本龍一は相変わらず坂本だなぁというか、なんとなく坂本の音楽は好きだけど語る言葉が好きじゃないなと常々思っていたんだが、この対比でなんとなく判ったような。

三多摩地区対東京23区の対比というか。坂本龍一も清志朗もチャボも東京出身だが、清志朗は三多摩地区育ち。東京の中心からはずれた中途半端な田舎で、田んぼやなんかがあって帰り道に牛がいたという話はインタビューにも出ている。インタビュアーの渋谷も東京もんだが、彼は20代半ばまで牛に毛が生えている事を知らなかったらしい都会人。坂本龍一のイメージもそういう典型の都会人的な印象で、六本木とか赤坂や青山のクラブでウロウロしていたというイメージがある。それに比すると三多摩代表の清志朗は最終的には青山に住んでいたにもかかわらず相変わらず中途半端な田舎な泥臭い多摩地区的な空気があって、横浜のチベットと呼ばれる半端な土地で育った私はシンパシーを感じてしまう。チャボは新宿育ちなんだか彼もどこか泥臭く、そして東京の田舎もんよろしく、あまりガツガツしていない。友人を見渡しても東京(或いはその近辺の郊外)出身の田舎者はどーも東京のスピードについていけないようなぼーっとしたのが多かったが、チャボにもなんとなくそういう空気がある。

そういえば坂本龍一渋谷陽一と違って清志朗のイデオロギー活動を肯定していたようだ。(渋谷は評価していない)
坂本龍一は「清志朗はなにも考えていない」と評していた。「あまり考えていないけど反射神経でなんでもやっちゃう」と分析していた。確かにそんな感じはある。でもたぶんなにも考えていないんじゃなくて考えてはいるんだけど評論的に語らないだけなんだとは思う。アカデミックな教授とベタなアーチストな清志朗の対比でいえば、アート世界で評論家やコンセプト重視の現代作家が造るアカデミックな世界に距離感を起きたくなる私はやはり人物的には清志朗の方が魅かれるなぁと思った次第。知識人でイデオローグな事を言いたがる人は時々うんざりするので(巻末の矢野顕子の言葉なんかにもそういう嫌みがある。どーも好きになれん。このアカデミックバブリーな人々は)清志朗のやり方はなんとなく好感が持てたなと。野暮ったいのをあけすけにやるとか、法螺貝持って語るような照れとか。きっとその辺りだとは思う。もしかしたらこれは三多摩感性かもしれんな。三多摩な友人もそんな感じだった。泥臭いんですよ。それを肯定する感性。

シングルマン

シングルマン

RCサクセションの最高傑作。
特集号のインタビューでこれが造られた頃の話が出ていた。このアルバムに収められた『スローバラード』はRCの代表作。付合っていた女性とのエピソードを元に書かれたものだった。彼女のアドバイスを受けてはじめはお巡りにむかついた事を唄にしていた箇所を削ったそうだ。作詞のクレジットに書かれている「みかん」は彼女の渾名で(キヨシローは猫の名前等と言ったりしていた事もあったようだ)このインタビューでみかんさんが亡くなっていた事を初めて知った。

その話を語る清志朗がこの曲はそういう思い出や感慨から離れて独立したものになっていると語っているのが印象的だった。音楽とはそういうもんだそうだ。

清志朗にとって音楽は日記のようなものだろうと上記にも書いたが、創作物は造った時点でその時が止まる。自分自身にとっては時はそこで凍結する。だから新しい作品を書く。清志朗もそんなふうであっただろうとは思う。過去の作品は世に放った時点で自分のものでなくなる。そんな風な事を思っていたかもしれない。

で、この『シングルマン』だが今聞いても古くない。これに匹敵するのはサディスティック・ミカ・バンドの『黒船』ぐらいか。海の向うで言えばウォーホールがプロデュースした『ベルベットアンダーグラウンド&ニコ』とかな。そういう重さを感じさせる。しかしこのアルバムは日本に於いては時代に早過ぎて売れなかった。

ホリプロという間違った芸能事務所にいた(和田アキ子とか所属してるとこね)所為もあって決定的に干されていた清志朗は当時売れている音楽、つまり、さだまさしとかアリスを研究したらしい。えええっ!そういう方向に行かなくてよかった。わたくしはさだとアリスが嫌いだった。サヨクのイメージは彼らによって決定付けられていて、ハンドインハンドをしている、集団じゃないとなにも出来なさそうな胡散臭い人々という感じ。ついでに海援隊とかもな。嫌いだった。清志朗も嫌いだと思ったらしい。結局ストーンズとかピストルズを研究したとかでああいう風体で押し出しの強いビートを採り入れて、その後のRCの音が出来上がっていった。
この時代、今のようなインディーズシーンがなくて、ホリプロなんてミスマッチなところにいた事で苦労したわけだが、この苦労がおそらくオーディエンスと音楽の関係、そして商業に流通するということについての現実ということを清志朗は真剣に考え続ける事になったとは思う。表現が持つ影響力の責任ということは太田とのエピソードからも伺えるが。
数多くのレコード会社とのトラブル、インディーズとの喧嘩も含め、保身に走る流通ギョーカイへの批判もインタビューで読む事が出来る。

どこの世界でも、流通の保身や金勘定体質が創作世界を殺していくものだなと。そして世に流通するものはつまらない均質なものとなり果て、不毛の地がそこに残るだけとなる。そういう中で清志朗はよく頑張ったと思いますですね。