宗教野郎はムカツく

上記のように、病床のキヨシローに布教する馬鹿がいたのが驚きだが、まぁシューキョーが嫌われる理由がこの厚顔無恥な布教だな。

そもそも宗教世界に片足つっこんでいる私でも宗教野郎には時々うんざりする。

宗教臭いモノが嫌いなのに宗教にいるってのでもう矛盾してるんだが、カトリックってのはなんとなく物心ついた時にそういう刷り込みがあった所為と、青春期の反抗から西洋の反キリスト的な代物に傾倒していったのちの結果、今がある。つまり思考が結局のところキリスト教文化にどっぷり過ぎたので、死生観や思考ルーチンが糞のつくカトリックに仕上がってしまったのだ。

しかし、相変わらずしゅーきょー臭いのは嫌いである。

わたくしの前でムーな事をいうな。オカルトが感染る。などと思う。
聖書を引用して説教垂れる「敬虔な」馬鹿に顔面にパンチを入れたくなる。
つまらないことにこだわる原理主義者、イデオロギーを振りかざして権威を利用しまくる坊主、タコ壺篭ってエンドレスで同じ話ばかりしているヤツ、みんな氏ね・・・などとむかつく事がよくある。

だから上記のタイマーズの唄なんぞはツボにはまる。


いい加減、こいつ等、超うぜぇ宗教野郎共とは縁を切ろうかと思うが、生憎、カトリックの教えってのは、三位一体という深遠を持っている。三位一体という思考を通じるならばなんらのこの世の事象との関係性というものは目の当たりにせざるを得ない。教会という罪人の集合体であり、己のみが清いなどというのは幻想である。上記の馬鹿共がうざいから縁を切るなどというのは、己の妄である。なにかを切り捨てても他でまた切り捨てたくなる共同体が存在し続けるだけである。それよりも罪人である自分のどうしようもなさを愛するように他人を愛するというか、どうしようもないのはお互いだろうと。頚木をになうのが、結局のところイエスの教えでもある。イエスが担っているのはそういう自分も含めたどうしようもない馬鹿共の罪である。共に担えと命じている。
このアホ臭い宗教から逃げ出しても自由な楽園などない。どこかのまたアホ臭いなんらのうざい集団、はてな村か、地元のコミュニティか仕事関係か、趣味の仲間か、とにかくうざい地獄はどこも同じであり、アホ臭い物を隣人として受け入れざるを得ない共同体というのは人間が2人以上いれば生じるんである。

タイマーズ北朝鮮をとことん馬鹿に・・いやネタにした曲で、しかし「愛しあえる」というメッセージを折り込む事を忘れないってのはそれと似たようなもんである。清志郎は大層、繊細なロマンチストだったので「愛しあう」ことを常に発信していた。

そういうわけで、教会にいる。

自分がかように時々うざいと思っている共同体でも、他者から見ての誤解がある場合は擁護というか正したくはなる。他人ごとみたいに自分の共同体の悪口を言うような心理は持ち併せていない。関わった以上、責任は取らざるを得ない。

でも相変わらず時々げんなりすることがある。

まぁ、喧嘩売りたい時は正々堂々と面と向かって言いに来いやとか、まぁ色々あるよな。
陰口嫌いなんでな。