『エリーゼのために』忌野清志郎の話を更にしつこくするが今度は芸術についてだ

いい加減、もう清志郎はいいだろ?と思う方もいるだろうが、15年ぶりの再会なんだから赦してくださいです。

本日、本棚に清志郎が昔出した詩集があるのを発見した。我が家の書棚は4次元スポットが多いので何冊かあったはずだが見つかったのは『エリーゼのために』一冊だけだった。『十年ゴム消し』も『日々の泡立ち』も見つからない。どこ行ったんだ?
はてなの和書検索では『エリーゼ』も「ゴム消し』もない。もしかして絶版ですかね?ぐぐるに権利明け渡せ!


ある日、変な男がやってきて、詩集を出さないかと言い出した。


「でもなー、俺は詩人じゃないぜ。ただのブルース・マンだからな。」
「えー、ブルース・マンなんですか?」
「そうさ。ブルースが俺にとりついているのさ。」
「しかし・・・・、まえはバンド・マンって言ってたのに」


  ブルースが俺の足にからまって、一晩中踊らせるのさ。とても寝かせちゃくれねー。
  奴は俺の鼻から、スッと入り込む。それで俺は、また新しい曲を書くのさ。
  俺はバンドの奴らと長いツアーに出る。でも、手をぬくわけにはいかねえ。ブルースが俺の背中にへばりついてて休ませちゃくれねえのさ。
  ステージでとんだりはねたりやるのは、ブルースがとりついてるからなんだぜ。


「そうですか。色々大変ですねえ。ブルース・マンでいるためのトレーニングとかは?」
「まあ、ジョギングとか・・・」
「しかし、必ずしも詩人だけが詩集を出すのではありません。ブルース・マンであってもかまわないじゃありませんか」
「し、しかし、きみ・・・・、それに服装が・・・」
「・・・・・」


その男が何も言わずにカバンから取り出したのは、着物であった

  (『エリーゼのために忌野清志郎 彌生書房 「あとがき」より)

なんじゃ?このシュールな「あとがき」は?

清志郎がなんとなく心に響くのはこの「言語」センスだと思う。
清志郎は実にしゃべるのが苦手であった。テレビやラジオで「・・・・・」を大量に発動する。大人しくてしかし挙動不審である。
しかし一旦、詩的なものを書き出すとかなり冗舌だったりする。

私は絵をやる人間なので「言語」をどこかで信用していない。話す言葉には嘘がある。論理を語れば語ったそばから矛盾を思いつく。言語は筋だって語ろうとすればするほど不自由で、大量の言葉の定義、前提となる条件、認識を説明し、矛盾がある事を更に説明しはじめ・・と、とにかくなにかを伝えようにも、ストレートでは済まなくなる。
しかし「詩」という形式はそれから自由である。絵画と同じであり、なにか直感知的なものを書きたい時に最良である。欠点を言えばどうとでも解釈しようと思えば出来る辺りではあるが、絵画的な直感めいたものというのは、共有できる人のアンテナに響けばいいよ的なものでいいよななどと思うので、くだくだしく説明などしたくもない。評論家アート化したコンセプチュアルアートなど糞喰らえだ。

・・というような考えが清志郎にあったかどうかは不明なんだが、絵描きなわたくし的には清志郎がそうであるところにひどく共鳴していた。

上記のあとがきの言語センスは面白い。
エリーゼのために』という詩集はRCサクセションの為に書いた清志郎の曲を集めたもので、有名なあの曲もよく知ってるあの曲も乗っている。まるで歌詞カードみたいな詩集である。
さて「あとがき」のファンキーさはともかくも、あらためて「詩集」という体裁で活字で読む清志郎の詩はどこかよそよそしくもある。詩そのものが持つ力は変わらないんだけど、やはり音声言語として聞くべき詩だろうなと。こんなに行儀よく文字が並ぶような存在じゃないような、つまり清志郎の歌には色がある。かなり様々に表情が変わる極彩色の。しかしこの詩集はもっとモノトーンな印象。わたくしめは文字に色が付いて見えるという変な癖があるんで、どーにも詩という形式を通じると、清志郎の詩は音楽に比して、儚く透明感のあるものに思えてしまう。

たぶんそれは、歌を知ってるからの先入感に過ぎないのだろうけれど。

しかし、音声がついた詩として聞く時、彼の言葉は鮮やかに色がついていく。音と言葉が活き活きと対応する。その自在さが心地よい。
ガガガガガガとかぶんぶんぶんとか、変な擬音が生きて来るんだな。
「野良犬が走ってく、パトカーみたいに」とか「条件出してる奴より 牛乳飲んでる奴より」って、どうよ?こんな組み合わせ思いつきませんよ。あたしゃ。なんか、どういっていいか判らないんですが、すごい。


にしても、他の本はどこ行ったんだ?実家に置いてきたかなぁ。