メランコリアー土星に支配される芸術家

ホルストの『惑星』の「土星」はなんか辛気臭い音楽だった記憶がある。
モリーネさんのエントリから。
○vita cotidiani
http://d.hatena.ne.jp/momoline/20060508/1147079198
■[文化]Melancholie
ドイツでメランコリーをテーマにした展覧会をやっていたそうだ。ん?これって以前どこかで読んだ記憶が?
竹下節子ーアート論評
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/bamboolavo/art.htm#grandpalais
■二つの展覧会<グラン・パレ>(2005.12.21)

古代、美術はリベラルアーツの分野に入れられていなかった話を以前した。ギリシャ人達は美術家の成果たる作品を評価することはあっても美術に携わるものに対しては工人という考えがあり彼らに高い精神性があるとは考えてはいなかった。セネカプルタルコスもそう考えていたらしい。「我々はその作品は享受するが、その製作者は軽蔑する」(プルタコス談)などとトンでもないことを言っている。後年、美術は教養人の嗜み(ネロとか絵を描いたりしていたらしいよ。)として受け入れられたとしても、それに携わるプロとしての美術家は依然として、侮蔑の対象であった、
中世、キリスト教が支配する社会において、その嗜みも観賞もしばし忘れられ、視覚芸術は衰退する。視覚芸術は典礼に組み込まれ、教会に仕える職工として美術家達は働く。もともとが偶像崇拝を嫌う要素を内包しているが為にそれは抑制された働きとして命脈を保つ。長い中世の時代にいったんは衰えた視覚芸術も自然発生的に再び発達しロマネスク、ゴシックという発展期を経てルネッサンスへと到る。
そしてルネッサンス。芸術家の顔がみえる時代。ジョルジョ・ヴァザーリの手による伝記のお陰で我々は彼らがどのような人であったのかを知る。これらは美術に携わる職工が精神性を持った存在であるという社会的地位の変容があったことを告げる。
マルシリオ・フィチーノはこれら芸術に携わるもの達の精神を「土星に支配されたもの達」と定義した。ルネッサンス人にとって神は真理であり善であり美である。そして神は愛であった。「プラトンは天上の愛を言葉ではいいつくせない欲求と称し、それが我々をして、神聖な美を認識せしめるものであるとする。美しい肉体を見れば、神聖な美を追及せんとする欲求が燃えあがる。それゆえ、霊感を受けた人々は、神聖な狂気という状態に陥るのである」(『数奇な芸術家たち』岩崎美術社p218)
ルネッサンス人は芸術家の神聖な狂気は土星に支配されていると考えた。これはアリストテレスからの伝統で「哲学とか、政治とか、詩とか、美術やってるヤツの中で天才的なのはメランコリー気質だよな」とか言ってるらしい。しかし教会はこの手の憂鬱症は肉体的破綻と見做していた。それは怠惰の罪に近いものとして認識されていた。なるほど私はいつも怠惰である。でもどう考えてもルネッサンス芸術家は怠惰には見えないけどね。で、ルネッサンスの人々は芸術家の気質(それも天才のは)神聖なる偏執狂と考えたようである。かくして「芸術家はき○がい」「芸術家は普通と違っている変人」という世間的に過った像が流布し、そのお陰で私などは昼まで寝ていても近所の人に「あ〜絵描きさんだから」と大目に見てもらえている。大目に見てもらえるので堂々と「午前中は使い物にならないので午後に来てください。午後に電話してみて下さい」などと言えるのであるよ。困るのは銀行に付合う時だけだ。
とにかくルネッサンス期、画家達は感受性に富むが故にいつも陰うつに考え込み、メランコリックで、孤独を好む傾向があり、おかしな行動をとるとされたようで。
◆◆
ネットを容易く大勢の人が使える時代。人は皆、表現者となったといってもいい。ここでは不特定多数の人に公開されたブログという文化が発達している。本来個人の私的空間にあったものが公になる。かくして人はさまざまなスタンスで表現しはじめる。
先日のコメント欄でも少し触れたが、ここでは書き手が、読み手という存在の誰を想定して書いているか?によってかなりスタイルや内容が違ってくる。読み手のことはいっさい脳裏にないようなものまであるし、特定の読み手に対し書いているものもある。信仰について書けないのはそれが主観の存在であるからと書いたが、明らかに神に向って書いているような人もいる。それは例えばギョーカイでいう処の「証し」と呼ばれる行為に近いんだろう。個人的な祈りに過ぎないそれを日常の場で読む違和感。どーも私は苦手である。信仰だけでなく、悩みとかなんだか判らない情熱とか、大変に濃縮された主観的な情念が客観的に推敲されていない手法で書かれたものは読み手としては流石に共有するのが困難である。ナルシ入っている文章というのは普通はドン引きされるもんだったり。
結局、公共の空間というものをどのように認識しているか?ということから「表現」という行為ははじまる。コメントをつけられないようなブログの場合、どこかで一方的すぎて共通言語がない場合が多い。(コメントがなくて寂しいとか、欲しい人は一度自分の表現というものを推敲してみるのがいいかも。)
こうした中で、異常に憂鬱症で主観に満ちあふれた密度の濃い文章などが登場したら、ブックマークを大量につけられてしまうかもしれない。コメント欄には誰も来ないでブックマークだけが増える人。ミケランジェロなんかそういうタイプかもしれない。
ネット時代にもしルネッサンス人がいたらヲチの対象になりそうですね。ダンテのごとく恨みがましく尚且つ女のことに女々しい粘着質とか、ウッチェロのごとき遠近法のことしか考えていないオタクとか、チェリーニのような行動が迷惑で大言壮語を吐くやつとか。
◆◆
上記のメランコリアに関して、レオナルド・ダ・ヴィンチネタから竹下節子さんが書いた本が出るそうです。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31707711/
・・・ていうか今日発売なんですけど。アマゾンにはまだ出ていない。
竹下先生の御好意で送ってくださったそうなので後日、書評アップしますです。
このエントリの続きはその時に。
尚、引用参考文献はこれ

数奇な芸術家たち―土星のもとに生まれて (美術名著選書 10)

数奇な芸術家たち―土星のもとに生まれて (美術名著選書 10)

  • 作者: ルドルフ・ウィットコウアー,マーゴット・ウィットコウアー,中森義宗
  • 出版社/メーカー: 岩崎美術社
  • 発売日: 1969/03
  • メディア: 単行本
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ところで、これ書きながら久しぶりにホルストを聞こうと思ってかけたら、島犬カナが部屋から逃げて行ってしまった。「火星」が怖かったらしい。まぁ戦争の神だもんな。