日本カトリック正義と平和協議会

日本カトリック正義と平和協議会。略して「正平協」が今、カトリック教会外の方々に注目されているようだ。どーもあちこちの検索で引っかかる。私のサイトにも北朝鮮がらみでヲチしていらっしゃる憂国の方々が来られるようだ。日本の明日を憂える方々の為にこの謎のあやしい宗教団体組織についてここでまとめておこうと思うですよ。
私はこのサイトで再三触れているように、ローマ・カトリック信者である。のほほんとナニも考えていない。マジに悩むならミサをサボる言い訳ぐらいだ。あと最近は季節柄、告解ネタぐらいね。ごくふつーの信者である。真面目なプロテスタントの信者さんと違い、聖書もあまり読まない。伝道もしない。「死後裁きにあう」などと道を歩く人をつかまえて語ることもしない。とにかくなんにおいてもすこぶる怠け者なのがカトリックの信者である。それが最近はどうよ?どうも政治思想世界でやたらアクチブに活躍してる一団がいるらしい。カトリックにあるまじきアクチブさ。それが「正平協」である。

正直、教会内でこの方たちを目撃したことがない。うちの教会は信徒数3000人を誇るそれなりにでかい教会だが、この活動家を見たことがない。ミサさぼりが得意な私が知らないだけかもしれないけど。知り合いにも友人にもいない。類は友を呼ぶからしかたないか。わたくしの霊的師である某神父は「わたくしは正義という言葉が嫌いです。」と言っておりました。「正平協」が日の丸君が代に反対したときには露骨に嫌な顔をしていた。彼らの活動をかなり軽蔑しているようだ。こういう分際をわきまえない活動家は嫌いらしい。

正平協がいかにも好きそうな夏の「千鳥ヶ淵への平和行進」というカトリック教会の行事に参加したことがある。当然、正平協もパンフレットを受付においていた。それをうっかり手にした知らないおばさんが吐き捨てるように「この団体は嫌いだ!どうかしている」といっておった。「みんなに嫌われているわよ」と教えてくれたけど、その時はどんな代物か知らなかったので「ふ〜〜ん。そーなんだぁ」ぐらいに聞いておりました。平和運動好きそうなおばさんにまで嫌われている「正平協」って何よ???とにかくギョーカイの書き物やネットを通じてしかその存在を知らない謎集団であり、私の知る限りの信徒の概ねがな〜んとなく嫌っているという存在が「正平協」である。

彼らの声明は鼻息が荒い。↓これを読め。
http://www.jade.dti.ne.jp/~jpj/indexJP.html
わたくしは朝日新聞琉球日報のサイトかと思ってしまいましたよ。やれやれ。

このようにすこぶる政治思想的に偏っているために、最近は信徒間でも不信感が募っており、怒りまくっている信徒をあちこちで見かけるようになった。ブログにその気持ちを書いている方もいらっしゃる。MLなどに文句垂れをしている人もいる。最近あちこちでそのような怒りの言葉を聞くようになった。
大多数の信徒や司祭の声はしかし外部には伝わらない。正平協は自分自身の御用新聞カトリック新聞で派手に論説を繰り返し、全共闘世代の司教が声高に司教の立場で政治について具体的な言及を繰り返す。日本のカトリック教会の公式な文書としてこうした政治思想が発せられてしまう。こういう現状にそろそろ怒りの声があちこちから聞かれ始めている。
そもそもわたくしが子供の頃は蛇蝎のように共産主義を嫌うシスターとか政治にはコミットしない神父が多かった。が、昨今はこのような雰囲気に変質しつつある。これは怖い現象だ。まるでアメリカのネオコンのようで気持ちが悪い。まぁ、信者は馬鹿じゃないので司教の政治発言はスルーしてるけど、教会外の人はカトリック教会は左だ。という認識を深めつつあるようだ。実体とイメージにギャップが生じている。
政治についてバチカンはこのように言っている。

カトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について(一部抜粋)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/politics/index.htm
II 現代の文化的・政治的議論の中心にある問題
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/politics/politics2.htm
カトリックの市民は、さまざまな政治的意見のなかから、信仰と道徳的自然法
合致するものを選び、カトリック市民としての判断基準に従って、共通善の必要
に最もよく応えるものを選択するのである。政治的自由は、人間の人格の善につ
いてのあらゆる考え方は同じように価値をもち真実であるとする相対主義の思想
に基づくものではないし、また基づくものであってはならない。政治的自由の基
盤となるのは、政治は、所与の歴史的、地理的、経済的、技術的、文化的状況の
中で、真の意味での人間的・社会的善を具体的なかたちで実現することに関心を
もつという事実である。当面する課題がそれぞれ特殊であり、状況がさまざまで
あることから、道徳的に許容できる政策や解決策が複数あるということは生じる。
世俗的な問題に対して、特定の政治的解決法を提示したり、いわんや許容できる
ものとしてただ一つの解決策を提案したりすることは、教会の果たすべき任務で
はない。それは神から個人の自由で責任ある判断に委ねられているからである。

これを読んで文末に注目してもらいたい。
あきらかに正平協カトリック中央協議会の声明はこのバチカンの教理庁の指導を逸脱している。

IV 特定の側面に関する考察
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/politics/politics4.htm
キリスト教の信仰が、社会的・政治的問題に対して、厳格な考え方を押し付けよ
うとしたことはけっしてなかった。教会は、歴史の領域において、人間は、急速
に変化するものでもある不完全な状況の中で生きるほかないことを知っていたか
らである。だから、キリスト信者は、ユートピア的な発想に基づく政治的立場や
政治活動に組してはならない。ユートピア的発想は、聖書的信仰の伝統を、神の
いないある種の予言的展望に変えたものである。それは宗教の悪用である。良心
を希望へと向けるが、この希望は地上的なものにすぎず、キリスト教の永遠のい
のちへの望みを、その内容を抜き去って、再解釈したものだからである。
 同時に、教会は、真の意味での自由は真理なしに存在しないことを教える。
「真理と自由は、ともに結びついているか、ともに悲惨の中に失われていくかの
どちらかなのです」。真理が語られず、探し求められることもない社会では、自
由はどれほど真の意味で行使されようと、弱められる。自由は放縦と個人主義
と歪曲され、人間の人格の善と社会全体の善を保護することがないがしろにされ
ていく。

ここでは「ユートピア的発想」が何を指すかは大方の方は分かるであろう。

このようにバチカンが警戒する対象、それを正平協は擁護しているという構造だ。つーか自分のところにこの文章を乗っけておいてナニやってんだか、カトリック中央協議会

個人として、司教や神父がどのような政治思想を持とうが、どのような運動に参加しようがそれは自由だ。なんびともその自由を奪うことは出来ないしその権利もない。しかし教会の名を借りて、その知名度を利用して活動をするような姑息なやり方はよくないと思う。せんだってVAWW-NET japan(女性国際戦犯法廷)の胡散臭いからくりについて書いた。修道女会に正式に申し入れたとは思えないやり方で水増し的団体表記などもかなり誠意がない。ごく一部の人たちの了解で無関係な人までも巻き込むような構図。それがいまカトリック教会全体を巻き込んでいる。故吉田茂(臨終洗礼のカトリック信者)も嘆くと思いますがねぇ。

彼らにとってあの主張はキリスト教的倫理に基づいた普遍的なものだと思い込んでいるのかもしれないが、それはあくまでも多数あるなかの一つの解釈に過ぎず(わたくしからいわせれば幼稚な解釈だが、まぁ一つの回答ではあるかもね)、信徒が全て信じるべき教義としてあるわけでもない。このような場合は教会は伝統的に公式にはナニも語らないという態度をとってきたはずだ。教会自身の権利が侵されない限りは常に第三者の立場にいた(まぁ、教会の権利が侵されそうな場合はすこぶる剣呑に反撃や攻撃をするいや〜〜な組織ではあるケドね)。また、現状でも彼らがナニを垂れ流そうが、それを批判しようが無視しようが信徒は自由なのではあるが、なんせ声高なだけに、カトリック教会のイメージがどんどん偏っている。それについては司教たちの責任は重い。よくよく自らの立場を考えて行動や発言をしてもらいたいものだと願うばかりである。