教会の役割

カトリック教会は政治団体ではない。つまり俗な世界の機関ではない。聖域とは俗な世界から解脱した視点を有する場であり、俗の世界とはまったく違う視点を模索するべきである。例えば北朝鮮の問題においても、餓死寸前の人々を思いやると同時に、拉致家族の悲嘆にも思いやるべきである。過去の戦争において悲劇的な体験をした人々を思いやると同時に、戦争に狩り出されざるを得なかった当時の人々の苦悩をも思いやるべきである。従軍慰安婦と呼ばれる人々にも、戦犯と呼ばれる人々にもどちらにもそれぞれの立場の苦悩があるはずだ。どちらかに与することはあってはならない。全てに与せずして、全てに与するという、それが聖域の倫理だと思うのだな。善悪を単純に分ける権利など人間にはない。だから善悪については彼岸に委ねる。それが伝統的なカトリックの発想だったはずなんだがなぁ。その性で「ナチスに対してカトリック教会は優柔不断だった」と批判されても仕方がない。政治集団ではないのだから。アメリカにもイラクにも自分の信徒がいる。そのどちらかをも悪と決め付けることは霊的な世界においては出来ないのだ。それは地上の倫理が決めることだ。神の倫理は人間の想像を超えた彼岸にあるので、我々にはわからない。ただ、世界中の人々の個々の固有の「救い」を考えることが宗教の営みだと思う。ある人にとっては苦しみとは彼氏に振られた悲嘆であり、ある人にとってはそれは戦争で死んだ自分の子供への悲嘆であり、それらにおいてどっちがより辛そうであるか、他者は簡単に判断を下すかもしれない(まぁ、ふつー失恋よか、戦争被害者のほうが大変だと思うわな。比較するほうが悪いという人までいそうだ。)が、その人個人においてはどちらも救いを求めていることは変わりない。そのどちらにも応答することが宗教の役割だと思うんだけどね。