「戦争」と「靖国」を巡る徒然 

先日uumin3さんのエントリで靖国話した。

○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080815#p1
■[靖国] 冷めたじゃがいも

実際、ただの一宗教法人のことに対して日中韓のメディアが空騒ぎをしていたのが、ようやく通常の状態に戻ってきたという感じでしょうか。賛成派も反対派も(後者は特に)靖国神社に対して象徴的な意味を与えすぎていただけなのだと私には思えます。

激しく同意。

靖国に関して、中国様や韓国様が文句つけてきた時点で激しく嫌悪したわたくしであったが、昨今はナチがウヨウヨしていてそっちに嫌悪してしまう。どちらもイデオロギーの道具として「靖国」を捉えているのがなによりも嫌であった。

わたくしの世代は親父世代が戦中教育を受けた世代であり、また祖母の世代は戦争に行った人が多い世代である。祖母は戦争というとまず「日清戦争」とか「日露戦争」を想像する世代なんで自分の体験した戦争ではない生まれる前の戦争であるに関わらず、周りの大人が語る戦争がそれだったので、ついつい戦争の話をする時はその話を話す。経験したはずの大東亜戦争は語りたくないらしい。あまり話に出てこない。祖母のいとこは妻がイギリス人だったため、妻子が収容所に送られた性か余計に話したくないらしく。生前あって話を聞く時は概ね戦前の楽しかった時代の話である。戦中の話は自ら話そうとはしなかった。

そういう親達の話から聞く大東亜戦争や太平洋戦争の話は断片的過ぎはしたがリアルではあった。田舎に行くと戦没者の碑がある。ナニかと聞くと戦争に行った英霊の碑だと。国を守るために戦った人の碑だと親から説明を受けた。我々のために命を投げ出してくれた人々で恩義があるという認識を持った。

祖母が大正時代の中ごろまで朝鮮半島にいたこともあり、祖母から当地の朝鮮人の話を聞くこともあった。それについては以前も書いたことがある。朝鮮人は概ね愛情が深く、幼かった祖母はよくかわいがってもらったという。朝鮮半島が日本支配下に入った時、曽祖父は総督府の仕事で当地の養蚕の指導にあたっていた。朝鮮人の農民が自立出来る産業を根づかせるのが目的だったそうだ。当地では困った日本人も多かったらしく、朝鮮人を下に見て威張るような輩である。「そういう人の家は馬賊がやってきて火をつけられたんだよ。」と祖母が語っていた。他国の人を下にみるレイシズムは良くないと曽祖父から教育を受けていたようだ。祖母は大正時代のわずかな時を日本国外で暮した以外は日本から出たことがない。その祖母が意外とコスモポリタンな考えを持っている人だなと思うのは、そういう光景が原風景にあったからかもしれない。戦争で亡くなった人のことに関してはあまり語らないが、それは悲しみの思い出でしかなかったからかもしれない。

父は戦争末期に教育を受けた人であり神戸の戦後の混乱を知っている世代である。戦争終結後神戸は大変だったらしく、一部のよろしくない在日朝鮮人が暴虐の限りをつくしたのを当時の山口組の組長が制圧したという都市伝説が神戸のその時代にあった。じつはこれは単なるヤミ市利権闘争だったらしいのだが、何故か地元では「山口組カコイイ!」都市伝説になっていたようだ。そういうわけで、どーも朝鮮人に対する偏見がある。父が偏見をいうと祖母がたしなめるのを聞いてきた。(ついでにいえばその性で父はヤクザを尊敬していた。)思想的にかなり右翼。アメリカ万歳という戦後思想教育のせいで、アカは死ね、共産中国は死ね。ソ連死ね。的な思想で、朝日新聞を罵倒し、テレビの久米宏に罵倒の突っ込みを入れ、NHKはアカだと怒鳴り散らしていた。ついでに巨人についても罵倒していた。(関西人なので)とにかく左翼が嫌いで、父の時代にネットがあったら嫌中、嫌韓、嫌サヨクなネラーになったことは間違いない。しかしそういう父でも中国史は大好きで、普通の中国人も好きだったようで、中国旅行の機会があると行きたがった。共産中国政府は嫌いだが、中国人はどこかで尊敬していたようだ。中華街が歩いていける距離にあったというのも親近感の理由かもしれない。そういうこの世代にわりとありがちな、どこかいいかげんにイデオロギー的にはナニモ考えてない的な右翼である父は英霊を祭る靖国は特別な場所であると考えていたようだ。

この二つの世代を見ていると、日本がいち早く近代化したことでアジアで指導的立場に立ったことを誇りとしていることは共通している。そういう日本が戦争に負けたという現実がどういう形であるのか、戦時下で既に大人であった祖母にはその辺りは「植民地支配やあの戦争は批判されても仕方がない」的に消化されてはいるが、身近な人の死というリアルなナニかはあっただろう。父にとっては子供心にナニかやはり悔しさみたいなもの喪失感、不条理さみたいなものがどこかにあるんだなと思う。そういう思いとともに「英霊」というものはあるのだろうなと。個々に関わりなどは様々だろうが、象徴として、不条理な思いの受け皿としての宗教的な存在ではあるのかもしれない。そういう世代ではないので判らないが。

靖国」は英霊の宗教施設ゆえにそういうナイーブな存在であり。故に純粋に宗教的な存在だとしか思っていなかった。あまり興味無かったんでそういうもんだと思っていただけなのだが、海外から「靖国」について物言いが出はじめた時。そして国内の左翼政党が問題にしはじめた時、激しい違和感を覚えた。もっとも、靖国が政治の道具として登場したコトの発端は総理大臣の参拝という問題ではあったが。
公か?私か?といった時、それが国家的行事となるのはわたくしにも実は異論はあったが、私的にいってもいかんというのは流石に信経の自由原則から逸脱した批判だと思っていた。

uumin3さんがコメント欄で

antonianさん>国家神道的な「国教化」については(正平協さんじゃなくても)注意と危惧は当然かと思います。
ただ同じレベルで、靖国神社だけがたとえば批難されたり忌避されたりすることも、信仰の自由の側面からカトリックには批判していただきたいところだとも考えたりするんですよね…
まあ傍の者が何を言ってもとは思いますが、宗教に関して全く「リベラル」ではない(リベラルを称する)クリスチャンの方々がいらっしゃるのは何だかなあとずっと感じてもいるのでした…

・・と語っておられた。クリスチャンでないuumin3さんからはキリスト教サヨク達はこう見えるようだ。

uumin3さんが違和感を覚えておられるようにカトリック教会でも靖国批判は多い。
一部の聖職者達は率先して反対運動を起こしていた。信教の自由の為に国家事業化していることに反対というなら判るが、小泉元首相が、「私的参拝だ」と言ってるにもかかわらず、なんだかんだ言っていたりしたものであった。こういう姿勢に政治偏向的を感じるのは当然で、これ以外にもイデオロギー的な偏向が左方向にあからさまであった。いちばん馬鹿げたものは、世界中のカトリックの若者が集まる場で日の丸はよくないとへんてこでダサい旗を作って持って行ったという反知性的な事例であろう。こを知った時は流石にカトリックであるコトが恥ずかしくなった。

こういう有様に、ついにカトリック教会内の右翼が怒り出した。右翼でなくとも、バカで御花畑サヨク思想が蔓延していることに苛立っている人々が多かった。信教の自由を言いながらイデオロギー的過ぎる教会指導部の矛盾した立場、政治思想の押し付けにいいかげんぶち切れた人々が現在、反撃に出はじめている模様。その気持ちは良く判る。
んだがここに来て、どーも右方向に過激過ぎてそれどうよ?という意見や行動も出はじめている。カトリック信者であるにも関わらず。他宗教に「訪問」ではなく確信的に、それも政治的スタンスの証明として「参拝」するというのはどうなんだ?というのとか。宗教をあきらかに政治利用しているような行動まで散見出来る。カトリック内ウヨの代表格な言論者もメディアにいろいろ書いているようだが、それを読むと頭がひん曲がりそうになる時がある。

カトリック教会の信徒という本来「宗教」的感覚を理解しているはずの人々でもこうなのだから、世間様はもっとすごい。

もう、そこが宗教的な存在であるかを忘れたようなのが多いらしいことは既に一昨日書いた。ナチ絵馬とかはま絵馬ってこんなもんだからなぁ・・と思いつつも、こういう発想のバカのイデオロギーとは仲良くしたくないとか、そういうコトしか連想出来ない場に『靖国』を堕した責任取ってくれまいか?とか思うよね。

靖国に関わると左も右もどうも知性的でなくなっているのは、やはり戦争という存在が遠くなってしまったからだろう。リアルさが無くなった時点で、悲しみなどを共有出来ない世代が関わってきた時点で。そういう点では宗教としての靖国は実に「脆い」と思わなくもない。しかしその脆さこそがこの「靖国」という宗教の重要な要素でもあるとは思う。アニミズム的なものはロゴスの前には弱いが、連綿と無意識に存在し続けるものではあるだろう。左右のイデオロギー的なものが無くなっても、ここは静かな場に戻るだけで、ずっとそこにあり続けるんだろうし。神道的なるものというのはそういうモノだと思う。

映画『靖国』はそういう辺りを拾い上げようとしたのだろうか?見てみたい気もするが、DVDを買うほどの興味があるわけでなく、島にはレンタル屋がない。(正確にいうとビデオレンタル屋はあるがDVDはほとんど置いてない。品ぞろえは絶望的である。仕方がないけど)

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しかし、なんというかこの左右のイデオロギー闘争。バカがバカを産み出すスパイラルな気がする。バカサヨクが目立つとバカウヨクが産まれるというか。
左翼にも右翼にも、きちんとした言葉を持つ人がいてそういう人のはすんなり判るんだが、馬鹿レベルのはどうしようもない。世間が左翼的だった頃は馬鹿サヨクが目立ち過ぎたが。その反動で右傾化すると右翼人口が増え、バカウヨがウヨウヨ湧いてくる。馬鹿が増えると元の正当な主張は忘れ去られ、馬鹿しか目立たないので、もとの正当さまでが馬鹿レッテルに見えてしまう。そしてそれに反動したイデオロギーがまた頭をもたげ、そういう反動方向に社会が行くと馬鹿が再び・・・。

馬鹿にならないように個人個人が気をつけるしかないと思う。

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コメント欄で、靖国が宗教施設であると私が捉えていることに驚いた意見があったが、政治とはそもそも「祭ごと」であり、宗教的祭祀をどこかに持つ。近代日本はその文脈で日本という国を建設してきたようなところはあっただろう。そのように近代国家的な状況で産まれた装置にしても、その精神性はあの世的なことを扱っている以上宗教だと言うしかない。国家が切り離されて尚存在しているのはそれが宗教施設であるからで、政治機関としてあるなら法にそういうことがあってもよさそうなもんだが既にない。ゆえに現代は「宗教施設である」と認識すべきであると考える。出自なんかよりそれがどのように存続していくのかということで、今後どういう性質になるかは子孫が決めることであり、消滅するなら消滅するでそういう宗教が歴史の中にあったという記録となるだけだ。
ただ少なくとも御霊とやらを信じている人がいる以上、「宗教ではない」とは言えない。
またカトリックの公文書などにおいても信教分離。信教の自由の観点から靖国参拝の反対文書があるということは、一宗教組織であるカトリック靖国を既に宗教的存在として認めていることに他ならない。

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政教分離の一光景

パラグアイで新大統領就任、南米で新たな左派政権誕生
http://www.afpbb.com/article/politics/2507703/3225526
【8月16日 AFP】南米パラグアイで15日、4月の大統領選挙で歴史的勝利を収めた元カトリック教会司教で中道左派のフェルナンド・ルゴ(Fernando Lugo)氏が新大統領に就任した。

 首都アスンシオン(Asuncion)で行われた就任式での演説で、新大統領は、最重要課題は人口の約20%を占める極貧層への対策だと強調した。

 ルゴ大統領の就任によりパラグアイで60年以上続いた右派政権は幕を閉じた。就任式には、南米各国の大統領も出席。南米では左派政権が相次いで誕生しているが、パラグアイもこれに加わる形となった。(c)AFP

○司教の日記
http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/
8月15日は終戦の日に当たることもあり、ミサの中でも世界の平和のためにお祈りいたしました。世界中が熱狂しているオリンピックなど様々なことが起こっている日だと思います。その中の一つに、南米パラグアイでの新大統領就任もあるかもしれません。60年以上の一党支配を終わらせ、新しい風を吹き込むためにパラグアイの人々が選んだのはカトリックの司教でした。教皇様は7月の末に、歴史的にもあまり例がないと思われますが、新しい大統領フェルナンド・ルゴ氏が正式に聖職者から信徒へ戻ることを認めました。日系人の方も多くおられるパラグアイに、人々のためによい政治をする政府が誕生することを祈りたいと思います。

還俗した元司教。現代カトリックでは聖職者は政治家にはなれないんですよ。辞めないと駄目。そして司教職とはこれまた大切なんで、政治活動に身を投じるために司教やめたいというお願いは既に三年前に出されていたのだがなかなかバチカンから許可が下りていなかった。「ナニ考えてんだ?司教の身分で?政治にかまけやがって!」とかいうのはバチカンからすればそりゃそうだよなぁと思う。司教職とはただのお仕事ではないから。しかし多くの人民が期待している政治家としてのこの人という存在もやはり無視は出来なかったというのが今度の措置である。つまりまぁ馬鹿珍・・いやバチカン様は簡単には赦さないが現実的選択をする場合もあるというお話。

国家と宗教は互いに自立してるのが望ましいと思うのですよ。