右曲がりな方々に目をつけられたカトリック

わたくしが実存で忙しく、ぱそ世界をだらくさとサボっておった間になにか大変に面白いことが起きていたようですよ。
sumita-mさんとこ経由で知りました。
○Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091009/1255033275
カトリックプロテスタントユダヤ
どうもこういうことがあったらしい↓

○薔薇、または陽だまりの猫
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/c3d3e606c558725afd5e85827bc90f98
主権回復を目指す会ら「カトリック正義と平和全国集会2009さいたま大会」の「靖国」分科会を攻撃

せいへーきょーがついに右翼の攻撃に遭ったか。まぁ、今までなかったのが不思議だ。傍観。

・・・という気持ちに一瞬、陥りたくもなるが、こういう弾圧的行為は正直好かん。

ただ、政治的に具体的に関わるなら覚悟の一つもしとけと思うんで抗議にへたれてさっさとやめる覚悟の無さも情けないなどと思うけど、そもそもなんでやめたんだ?という疑問は生じた。何故だ?というか、更にそれ以前になんで靖国に行こうとしたのかも謎だけど、見学ぐらいしてみるのはいいと思う。ちゃんと向きあってみるのはいいとは思うんだけど。ナニがあったんだろうか?

というか、しゅけんかいふくをめざすかい・・・ってナニ?


更にこんなこともあった模様↓
○この国は少し変だ!よーめんのブログ
http://youmenipip.exblog.jp/12104222/
反日キリシタンをしつけよう!

むーん。イグナチオ教会に突撃したウヨクさん達がいたようです。
反日キリシタン」どもは死ぬか日本から出ていくかしろ!と言う鼻息の荒さですな。その勢いでもって、左翼的文言を吐く人々だけが集まるところではない、ただの小教区、つまり右翼も左翼も関係なく信仰が同じというだけの集団が集う共同体であるイグナチオ教会に突撃しているのには困ったものです。正平協本部に行くといいのに。潮見だろ?

・・・という、なにか頭の痛い自体が起きている模様です。
ネト世界に浦島なんで、ナニがどうしてどうなったのかがよく判らん。

この事態、具体的に動きはじめたのは9月の半ばに維新新党「新風」のせと弘幸がついに正平協の動きに目をつけたことにはじまったようではある。


せと弘幸Blog『日本よ何処へ』
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52332877.html#comments
靖国神社境内での反日工作を警戒しよう!

以前、ああ、ついにせと氏に目をつけられてしまったか!とぶくましといたエントリですよ。

正平協というのは、カトリックバチカンに本部をおく公式の団体で、本来、世界の平和を希望し、社会的弱者のために働くことを目指そうという、善意の団体なんだが、日本に於けるそれは些か毛色が違っている。

日本に於けるそれは具体的に政治に関わり過ぎ、高位聖職者が自ら教会組織を通じて憲法九条の会などを呼びかける等、あまりにも具体的すぎる政治的な手段や、また具体的な政治問題活動団体(VAWさんとかね)の後押しを教会本部自らがする等、或いは政治的スタンスが違う立場から見るとかなりイデオロギー色が強すぎる、宗教者というより政治団体だろお前?みたいな宗教的祈りよりも政府への抗議が強いようなメッセージを書くなど、まぁ「せんそーは嫌いだよ」な私でも辟易とする、自覚なき無邪気さで、イデオロギー全開に政治してる団体で、わたくしは個人的にそのセンスが大変に嫌いである。
つまり戦争なんぞ嫌いで、社会的弱者は救わなくてはならないと思っている私もこいつ等にゃぁ距離を置きたくなるんで、まぁ、私のカトリック的カリタスな活動に精神的に支障をきたすと嫌なので脳内から消去するようにしていた。なので、今回の事態など、正直、今更感はある。そもそもが以前から正平協は右翼さん達から警戒されていたし、カトリック内部からも批判をよく聞いていた。
どこから見ても左翼政党的典型的な思考で以て活動する正平協が今まで行動右翼からスルーされていたのが不可思議である。

ただ、なんといいますか、カトリック教会は宗教団体であり、そこには政治的な立場においてはイデオロギー的に左も右も同居しているのが健全と思うので、例えば左な人々を追い出したり、なにやら無関係な誹謗中傷する等の行為をするとか、言論の自由を奪うようなことになるならばそれは違う。或いは教会内での権威者が直接左方向に政治的なのは信徒に圧力をかけるもとなのでやめて欲しいという事はこのブログでも度々指摘してきたが、しかし高位聖職者でもない神父とか、俗に生きる信徒はそれぞれの信条で政治活動してるぶんには、教会内で積極的に政治ロビー活動しない限り、いいんじゃないの?ぐらいに思ったりもする。淡々と弱者のために働く聖職者なんかは積極的に応援したい。更に左に巻いた井上ひさしも、右に巻いた曾野綾子も同居してるのが教会としては健康的な光景である。

だからまぁ、セイヘイキョーに左翼信徒が集っていて、元から答えありきが予測されても「靖国さんを勉強してみるか」な事までを中止に追い込むのは違うんじゃ?勉強した結論を出した時、その論を批判すりゃいいのに。とは思ったよ。

◆◆

んで、今回、反日カトリックなどとレッテルを貼り、日本から出ていけなどと言い揚げ句、上記のイグナチオに突貫した記事を紹介しているブログに貼られた写真にあるような
「日本カトリック教会は神ではなく白人の僕、奴隷」
・・・・などという横断幕に到っては、カトリック教徒をすべて敵と見做しておるようで、もうね、どうかしてるとしか思えん。
なんで靖国を問題化してる一部の人間の話が、カトリック=白人の奴僕になるんだ?ロジックが飛びすぎておって理解出来ん。

闇雲にキリシタン狩りしたそうなのがいそうでやだな。
まぁ耶蘇というのは戦前から鬼畜米英の宗教で敵性宗教という扱いで弾圧されたりしたからな。戦前好きな人々は弾圧の習慣を崩したくなさげです。同盟国のドイツもイタリアもキリスト教徒だった事はスルー。ただ耶蘇が嫌いなようである。
耶蘇は左のリベラルや共産主義者からも嫌われてるんだが、右の国粋主義者もかように嫌いである。四面楚歌である。しくしく。

しかし、右翼の好きな麻生太郎も白人の奴隷か?
・・・・ああ、でも自民党アメリカさんの奴隷ではあるか・・・_| ̄|○

で、よーめんさんとこに貼られた「女性国際戦犯法廷をバックアップした無数にある日本カトリック教団」リスト。あれは「女性国際戦犯法廷」の団体が勝手に名を使ったらしい。賛同した個人の所属の団体名を書くという水増しをしているという指摘がある。何故ならば団体として賛同したならばかなりおかしい記述の羅列である。修道会が賛同したならば、○○会××修道院などという記述はしない。そもそも「うちの修道院修道院として賛同したわけでもないのに名が出ているのが不思議だわ」とその修道院に所属してるシスターが首をひねっていた。


こういう数を頼むような水増し大好き行為が多いようで、私はそもそもこの手のことをやらかすような左の団体は信用してないんだが、新風さん達をはじめとする団体の活動や言論を見ると、なんだか頭ごなしにすごいこと言ってたり、数を頼みにしたようなデモで圧力かけ、暴力みたいなのも増えてきているようで、こっちも信用したくないですな。今回の件で様々なウヨさんのコメントを読むとなにやら陰謀脳に陥っている人も少なからずいて、かつてこういうのは左方向ですごいのがいたもので、特に共産主義者カトリックに対し攻撃的で天敵だったんだが、最近は右方向が目立つなぁ。(ヨハネ・パウロ二世が共産主義者と互いに天敵なのは仕方がないと思う)

兎に角、敵と見做すならちゃんと勉強すべし。
カトリックのカオス世界をまず知りましょう。


因みにsumita-mさんが右翼さんの左翼活動家的言質を指摘していたが、実はかつての左翼活動家が右翼に流れている現象もあるようです。愛国主義で反米が高じて左翼であったのが、今は反米国粋主義者に転じた人々も結構いるようですね。


しかし中国の憤青のごとき排外愛国ナショナリストには困ったものでござる。
いずれマジにキリシタン狩りしそうで怖いです。

もっとも欧州ではカトリック原理主義というかカトリック教会に対しバリバリに保守な人々は同時に世俗の保守、国粋主義者の排外愛国ナショナリストが多いので皮肉なもんだ。

◆◆

ところで、宗教者が政治的に思考し、尚且つ、ナニか特定のモノを敵と見做すような思想になるということを私は警戒してしまう。

倒壊する巨塔〈上〉―アルカイダと「9・11」への道

倒壊する巨塔〈上〉―アルカイダと「9・11」への道

上記の書はアルカイダが、或いはビンラディンが、何故あのようなテロルを起こすに到ったのかを丹念に追っている。911テロものでは優れた書だと思う。
宗教的思考が陥る危険について考えさせられる。
まだ途中なんで。ビンラディンアルカイダを創ってみたはいいがなかなか大変だよという辺りを読んでいますよ。

政治的に思考する時、なにか対立するモノが生じてしまう。そこに宗教的思考が加わった「正義」ほど恐ろしいものはない。宗教者の考える正義は実に危険である。神に帰すべきものであるという自覚無き正義ほど怖いものはない。我々が考える正義など不完全なんだと自覚しとかないといけないなどと思う。それが人間の限界であり、そして不完全な正義によって考えられる政治からどうしてもこぼれ落ちるものを救うのが宗教であり、相矛盾する人間世界に於いて補填しあうのが宗教と政治であり、しかし本質的にそれらは対立構造にはあるだろう。

政治と宗教が一致してしまうようなユートピア的な思考が実は一番怖いなどとも思う。そういう場合逃げ道やマッチポンプシステムなんかを作っとかないと、マジに抑圧された人が生じた時の救いがないだろうな。原理主義が怖いのはそれを否定してしまうところにもある。