昨日の変な検索/今流行りの『ダ・ヴィンチ・コード』

オプス・デイ+棘つきのベルト
ヴィンチ・コード++オプス・デイの修道僧++棘つきベ
オプス・デイ 修道僧 ベルト 棘
ダ・ヴィンチ・コード オプス・デイの修道僧 棘つきのベルト
苦行 善 オプスデイ

あ?昨日はいったい世の中にナニがあったんだ?
このバリエーションが大量にあったぞ。
・・・・というかこればっかりがすげー大量に引っ掛かってンの。
ナニ調べていたんだろうね。
しかしまぁ、変な苦行をする修道僧がオプスディにいるとかいうくだらん設定を『ダ・ヴィンチ・コード』がするもんだから世の中の善男善女が「オプスディってそんなことするのぉ?」とか騙されているわけだな。
まったくあの屑な三流ミステリーを誰かなんとかしてくれ。
バチカンが「いい加減にしちくれ!!!!ありゃ嘘ばっかりなんだぞ」と公式に言っとかないと思う気持が判ってきた。
あらためて言うが。あの本は史実でもなんでもない。
オプスディは世俗の信心集団で政治的に右派ではあるが変な結社ではない。アホな苦行をする修道士は『ヘルシング』辺りではキャラが立つかもしれないが、あの手の苦行は中世に流行ったが、現在は禁じられていたはず。個人的にやっているのがいたらそれはタダの電波。カトリックでもドン引きされる超電波だ。覚えておいてくらはい。

しっかし、あんなくだらん小説を知的だと思ったヤツは世界史を一から勉強し直せ!!!!!
あーうぜぇ。
そもそも「レオナルド」と言え。「ヴィンチ村の暗号」って、タイトルからして馬鹿じゃん。
レオナルドがフィレンツェ出身なら「ダ・フィレンツェ・コード」か???
(よく考えたら、雑誌『ダ・ヴィンチ』も相当馬鹿タイトルだな)

・・・というわけでバカチンが今後あの小説に文句垂れしてもアホとか野暮とか思わないようにしよう。
◆◆
私がぶりぶりぶりぶりと理性も見境もなく怒っていたら、多方面の方が「まぁまぁまぁ、ちょいと姐さん、冷静に」とお声をかけて下さった。済みません。
●オプスディの苦行について
まず、sekkoさんからもご指摘の通り、オプスディの信心業の一つに「苦行」があるようです。

オプスデイは苦行を奨励してます。シリス(棘付きベルト)の着用は独身者のみで1日2時間を超してはならない。既婚者は食事を抜くとか、珈琲に砂糖を入れないとか朝冷たいシャワーとか、健康法みたいな苦行が例に挙がってました。だから、苦行好きな人は結構やってるんじゃないでしょうか。

うへぇ。オプスディってキンモ〜*!
いやいや。失礼。
この手の苦行は昔から存在していて、苦行好きってのがいるんですね。そもそもイエス自体40日間荒野を彷徨ったとかいう、断食苦行めいたことをしているわけですし、仏陀も若かりし頃は苦行林で修業をしていたようですが「無駄」と悟られたようです。それでもタマに断食を伴う瞑想はしておられたようです。イエスの荒野も、仏陀の断食もそれは苦行というよりは祈りの為だと思うんですけどね、
中世にはその手の苦行が流行し、鞭打ち苦行者と呼ばれる集団が登場したり、映画『薔薇の名前』にも鞭打ちをする修道僧が出て来ます。またフランシスコ会の親玉フランシスコもつねに苦痛を感じるために衣類の内側にちくちくする布を縫い付けたといいます。フランシスコ会の場合この手の苦行は個人的なもので会として推奨するものではなかったようですが、師父フランシスコはすこぶる変人だったのですが、それを自覚していて他人には真似するこっちゃないと思っていたようです。
この手の苦行というのは生き過ぎを懸念してよく教会から厳重に注意されたりしてきたのですが後を絶たないようですね。

○生存報告実施中
http://d.hatena.ne.jp/LethalDose/20060516
■[日記] あんとに庵さんご立腹
→いやお恥ずかしい。まったくおっしゃる通りなのです。今後ともよろしくです。
カトリックせいかつ。
http://d.hatena.ne.jp/Christina/20060517
■『ダ・ヴィンチ・コード』映画封切りによせて
→そうか日本でも映画が封切りされたんですね。だからかますびしくなってしまったのかぁ。
 お気持ち激しくよく判ります。

日本のテレビもあやかり番組をたくさん作られていて、ダ・ヴィンチがまるで反キリストの旗印みたいに扱われているが、本当かなぁと思う。

そうなんですよね。クリスチナさんもご指摘の通り、レオナルドは反キリストではなく、馬鹿坊主のたわ言は嘲笑はしていたかも知れませんが、基本的にキリスト教の文脈の中で神を探求していたし、当時のルネッサンスの教会側もわりとおおらかだったんですね。それを後世は「キリスト教の堕落」などと批判するんですが、他方で教会が頑迷などと印象付け、他方でルネッサンスを堕落とする。お前らダブルスタンダードだろ?といいたくはなります。まぁ、そうは言っても経済的なこととか教会政治的にはやはり堕落な時代だっただろうとは思うけど、思想的にはユリウス二世なんてすごいトンデモ教皇もいたほどで。自由という以前に教皇が率先して「異教」ローマオタクだったり。
◆◆
ここに来た人は、まず竹下節子さんが文藝春秋6月号に書かれた記事をお読みくださいです。
こちらにまとめが出ている↓
○麻野ブログ   すべては表面的な理解
http://blog.excite.co.jp/asano/i6/
ダ・ヴィンチ・コード

まず、ダ・ヴィンチ・コードはこういってる。

1.キリスト教は女性原理(ギリシャ・ローマにみられる女神など)を隠してきた。
2.イエスマグダラのマリアと結婚していて、その子孫がヨーロッパの王家の血筋になった。
3.上の二つの秘密を守るために修道院が作られて、そのリーダーのレオナルド・ダ・ヴィンチは、自分の絵やタイトルにそれとなく隠した。
4:これらのことがばれるとやばいので、バチカンは必死で隠している。

で、竹下さんは、こういってる。

1.キリスト教は女性原理を隠してない。マリア信仰がそのいい例。
2.イエスとマリアの結婚に証拠はない。その子孫がヨーロッパの王家の血筋というのも根拠ない。
3.もとから隠す気などないので、バチカンはなにも困らない。そもそも、イエスは人間と神の両方の属性を持っているというのがバチカンの教義。人間の方のイエスがなにをしようとも、神の部分には関係ない。
4.つーか、キリスト教にまつわるオカルト系の話は山ほどある。源義経ジンギスカンになったというのと同程度の話。それを本気にした(のか確信犯なのかわからんが)のが、作者のダン・ブラウン

うーむ、要約が判りやすくて助かります。
そもそも小説がヨーロッパではなくアメリカ発というのは、この手の伝承(偽も含め)を遊ぶ土壌がヨーロッパにはあったのですね。聖人伝も含め、カトリックの文化にはいかがわしいと言ってもいいような伝承なども多数ありますが、そういうのを信じないで愉しむ、つまり眉唾付けながら愉しむ文化がヨーロッパにあるのは、カトリック教会側に「聖伝承」というがあるからで、教会の言うことはなんだか胡散臭いことも多いけど、信じるにたるよさもあるよ。的な。距離のとり方を知っている。そういうのは日本の民話や神話との付合い方にも似ていると思います。だれも古事記や日本書記にかかれた神話世界の光景をそのままで史実であると信じてはいないけれど、それでも日本人の共通の伝承として愉しむ。だから神様とも親しむというそういう感じに近いかもしれません。
しかしアメリカというのはそもそもが新しい国で伝承も神話も共有出来ない。だからその手の伝承にマジに向き合ってしまう。馬鹿といえば馬鹿。素直といえば素直。またキリスト教文化では文献を重んじるプロテスタントが中心で出典や原典などを大切にする為、いかがわしいモノはいかがわしいと切り捨ててしまう土壌もある。ですので昨今の「ユダの福音書」などもプロテスタント的な世界(もっとも研究者レベルや、神学者、教養のある人間レベルでは問題にはさほどならないだろうが)では大きな問題になるように、この手の伝承の真偽も突き詰めない時が済まない精神性があるのでしょう。そのお陰で聖書学などはプロテスタントの方が遙かに研究は進んでいたりするんですね。文献学的にはカトリック教会側が見習った方がいいようなスタンスも多いのですが、庶民的レベルとなると、「伝承」をどうあつかっていいのか困惑する人も多いようで。そういえば映画などに真面目に抗議するとかそういう野暮がもっとも多いのもアメリカですね。最近はヨーロッパでも野暮が出現しつつありますが。

尚、レオナルドに関しては以下も参照のこと。