聖体(ホスチア)の論議

ユリアヌス先生が聖体について書いていらした。
http://iulianus.exblog.jp/5022650/
ぎょーかい以外の人には何だかワケワカメな「聖体」
ようするに、ミサの時に食べるパンね。過ぎ越しの祭の際に種無しパンを捧げたあのユダヤの祭に端を発するモノではあるが、カトリックや正教では毎日、あるいは毎日曜日祭儀として捧げられていたりする。礼拝の形式はこの聖体を中心として作られていたりするのである。それ以外の神への祈りは修道会なら聖務として、俗なる人々も自分の日常のどこかで祈ったりしている。しかしミサにおいては「秘義」「神秘」として神との双方向の交流があると、まぁ信者は理解していたりするのであるよ。


聖体に関わる有名な絵ではラファエロの「聖体の論議」という絵がある。この絵はローマオタクだったユリウス2世によって依頼されたもので、古典的学問でもあるギリシャ哲学への礼賛である「アテネの学堂」とキリスト教神学の象徴としての「聖体の論議」と共にラファエロの代表作として名高いものでもある。まぁミケランジェロ的なモノとレオナルド的なモノへの融合、そしてマザッチオの完成形という意味で、そこに至る絵画史の集大成でもあり、あるいはルネッサンスを貫く自由な学究のエートスを著わす絵画としても重要な作品だと思う。西方教会の思想史が視覚的に凝縮されているといっていい。ここではキリスト教があきらかにギリシャ的なモノを通じて発展したのだととりあえずまとめて見せているようにも思える。
「聖体」はカトリックにおいてはそれはキリストそのものになると言われている。一つの神秘であり、これが何故そうなのかは上記のごときギリシャ哲学的な理解を要することにもなる。それはイエス・キリストのまったき人、まったき神という、神性と人性がイエス・キリストにおいて完全に存在するということと同じでもある。半分ではなく100パーセント神であり、100パーセント人である。物理的にありえないがそういう事を延々ギリシャ教父達が論議してきたのである。聖体は見た目はただのパンではあるし、中身も小麦粉の塊ではあるが、それでいて「キリストそのものになりますよ。と」物理的に考えたらへんてこ極まりないのであるが、形而上的に思考すると可能になっちゃったりするのだな。哲学万歳。とにかく我々は聖体の秘義を通じて「三位一体」のへ理屈も理解出来るという按配で、ミサの祭儀とはよく出来たモノだなぁなどと感心してしまう。ギリシャの哲学者達を賛美したルネッサンス人も同じ事を思ったかもしれないよ。「俺達はヘブライズムとヘレニズムのサイコーのモノを受け継いだんだぜい。へへん」などと考えていたかもしれない。
ま、ローマ教会-或いは東方教会の一部以外には自己中に見える礼賛かもしれんがなぁ・・というのも「キリストは神そのものだよ」とか「イエスは人そのものだよ」とか神か?人か?という論議は、結局ニケアコンスタンチノポリの公会議で、中間である「どっちも100パーセントだよん」に落ち着いたけど「キリストが人なんて嫌〜」とか「イエスが神なんておかし〜」とかいう人たちとお別れすることになり、現在もその教義を大切にしている古い教会が一部に現存しているわけで。


ところでミサは「コミュニオ(交わり)」といわれるが、これは神と人との「交わり」をする貴重な時でもあり、日常を生きる我々が非日常の神秘に出会う至福の時ともなる。
昨今の日本の教会は神の事をすっかり忘れた主語で「交わり」を語るので「隣人との交流」をやたら強調する。日常がミサの中に入り込んでくるので、ミサの光景にそういうざわざわ感がどうしてもつきまとう。「聖」という直感的に認識するしかない存在との交流を認識出来ない人が増えてしまったのだろうか?神との対話によって我々は孤独ではなくなるのだが、「教会に集う人々の交わり」の方を強調されると、つまり「あくまでも隣人から孤立していないのだ」という地上的な視点での「交わり」を理解してしまうと、却って孤独になると思うのだが。聖域の人々が俗な思考でしか考えていないというか、ミサは地上の営みとは別の次元での営みであるからこそ、美しくそして神との対話を可能とする。そして出会った神との交わりによって我々は刷新され、新たな日常を生き抜く事が可能になる。しかしその神秘性が失われたらミサにはなんの意義もなくなる。ただの形式化した、定型化した儀典に過ぎなくなってしまうと思う。