ベネディクト16世の説教

karposさんがラッツィがコンクラーベで語った時の説教を挙げて下さっていた。

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050420#p1
私たちは、この数十年間、どれほど風のように移り変わりやすい教えを知ったでしょうか。どれほどの
イデオロギーを、思想の流行を…知ったでしょうか。多くのキリスト者の思想としての小さな舟は、
しばしば、その波によって揺さぶられてきました。そして、ある極端から、他の極端へと投げ捨てられ
てきました。マルクス主義から自由主義へ、そして超自由主義へ。共同体主義から急進的な個人主義へ。
無神論から宗教神秘的な流行へ。不可知論からシンクレティスム(諸派統合)へ。そして、これらはま
だまだ続くのです。人間の嘘や欺瞞、そして間違いへと陥れる巧妙なやり方について聖パウロが言った
ことが実現するがごとく、毎日、新しいセクトが誕生しています(エフェソ4、14)。教会の信仰宣
言(クレド)に基づいた、はっきりした信仰をもつことは、しばしば原理主義者のレッテルを張られま
す。また逆に、相対主義者たち、?つまり「風のように移り変わりやすい教え」を持たせるままにする
?こそ、私たちの時代に唯一尊厳をもった態度であるかのようにみられています。相対主義の独裁者は
?彼らは決定的なものを何も知らない、彼らは最終的基準を保留にしながら?まさに、彼ら自身のエゴ
と欲望を築き上げようとしているのです。

私たちは、そうではなくて、ある他の測りを持っています。すなわち、神の子、まことの人間という測
りです。彼こそが、ほんもののヒューマニズムの測りです。あるときまるで流行の波ようにやって来る
信仰は「大人」ではありません。大人であり、熟した信仰は、キリストとともにある友情のなかに深く
根ざしているのです。この友情が、すべての良いものに向けて私たちに開かれ、正しいか間違いかを、
また欺瞞か真理かを識別するための基準を与えてくれるのです。これが、私たちが熟させねばならぬ大
人の信仰であり、この信仰へと、私たちはキリストの群れを導かねばならぬのです。この信仰、この信
仰だけが、一致を生み出し、愛徳のなかで明らかにされます。聖パウロは、私たちに美しいことばを与
えてくれました。波に激しく揺さぶられる子どものような者たちという、この絶え間ない波瀾の対立の
なかでの、この美しいことば。愛徳のなかで、真理を行うこと。これは、キリスト者の生活において基
礎的なあり方です。キリストにおいて、真理と愛徳は交差します。私たちもキリストに少しずつ近づい
ていくこの途上で、私たちの生活においても、真理と愛徳は一つになります。真理のない愛徳は盲目で
す、愛徳のない真理はまるで「シンバルが響き鳴る」(1コリント13,1)ようなものです。

ある同性愛者の友人が、メールをくれた。彼はカトリックだ。厳格なラッツィンガー教皇になったことで、かなり失望している。彼にはかなりきつい返事をだした。戦わずして座して待っているのは単なる甘えだ。と。言葉を発せずただ失望して、愚痴を垂れていてもしかたがない。

しかし、彼の置かれた立場は確かに過酷だ。カトリック教会は同性愛をその尊厳は認めながらも、婚姻に関しては頑として譲らない。同性愛者そのものを罪深いとは言わないが、同性愛行為は批判する。これでは彼らは愛を語ることも事実上出来ない。そしてそうである限り、マイノリティである彼はそのアイディンティティが常に危機に晒されるも同然である。彼の孤独は相当なもんだと思う。私自身は同性愛者ではないからその苦悩はわからないが、少なくともわたくしも教会が理想とする生き方からは外れている。愛せそうな誰かに出会ったとしてもこの年齢では道を外れるしかない人のほうが多い。たとえ条件を満たしたとしても、子供を埋めない体では、聖座が考える夫婦の条件は満たさない。だから同性愛者と立場は同じとも言える。子を為さない結婚が否定されるなら、それは私も同じだ。しかしこのような同じ条件でも同性愛の婚姻は認められず、異性愛の結婚は認められるのだ。これって、なんかおかしくないか?というのはちょっと感じるのだ。聖書にある創世記の言葉が縛り続けていることは想像出来るがそれだけなんだろうか?この根拠が判らないので、未だ実は良く判らない問題である。

上記のまだ教皇ではない立場のラッツィンガーコンクラーベに臨むにあたって発した言葉は、枢機卿達に考えて貰いたかった思いであったろう。倫理の問題はかなり世俗的な事柄で変化していく価値の一つだ。時代と共に要求も変る。変容する倫理の価値に対し聖座が言葉を発するのは私は本当は好まない。「キリストに立ち返って」個々に考えるべき問題を、聖座が発することで硬直化するからだ。ラッツィがどういう意図で言ったかは知らないけど

同性愛者である友人いわく「多くの改革派の人間が失望し教会を去ろうとしている。」という。わたしはこういうのはいったい何を求めて教会に来ているのかずれていると思う。教会は祈る場であって、倫理社会の学校ではないし、たかが組織のトップが変ったからといって出ていくというのは、神を見ていないで人を見ていたとしか思えない。社会思想や倫理マニュアルを教会にまず求めている。しかしそういう人間が増えてしまったということも事実なんだろう。もう一度神を見つめる教会に戻す為に本当は第三バチカン公会議でも開いてもらいたいものだと思っている。