キリストは再び

さっきまでカザンツァキスのコレを読んでいた。再読なんですけどね。気分的に。

キリストはふたたび十字架に〈上〉

キリストはふたたび十字架に〈上〉

トルコの支配下にあるギリシャの小さな村が舞台。村の青年達が来年の復活祭に行われる受難劇の役をわりふられ、トルコ軍に追い散らされた難民達が村にやって来たことをきっかけに、それぞれが担った役のペルソナに同化していく。
なんというか、他民族に支配されている閉塞感のある状況とか、ギリシャ人の民族性の根源的な問題とか、富むものと貧しきものの対立とか。色々考えさせられるお話です。
ヨハネ・パウロ2世が生涯でおそらくもっとも悔いた出来事はロメロ司教の暗殺事件であっただろう。エルサルバドルの殉教者だ。軍に抑圧された貧しい民衆達の運動を支えてきた聖職者である。ミサ中に暗殺されたことで大きなニュースとなった。以下のサイトがそれに詳しいのでご参照のほどを。
http://osaka.catholic.jp/sinapis/overseas/archives/houkoku/000512.html
カザンツァキスの物語でも虐げられ、極限まで追いつめられた貧しき人々を率いる司祭が最終的に「キリストは我に。剣を持って立ち向かえ」と叫ぶ。単純に敵を愛せよといっていられないひっ迫した状況がそこにある。富める聖職者と貧しきものを率いる聖職者同士がつかみ合いをし、村人と難民もいがみ合う。ここで冷静に問題の種を見つめているのは部外者のトルコ人統治者のアガスであるが彼もまた事態にあたふたとさせられていく。最終的に多くの犠牲者が出るし、問題の解決もなく難民達はその地を去る。なんだこの救いのない物語は?と一瞬思ったですが、多くを考えさせられた。
富は悪。統治は悪。そう結論付けるのは簡単だが、私は最近そういう単純構造だけで物事を解決してしまうのもなんか違うような気がするとは思っている。物事は表裏一体で、それが解決したからといってあらたな問題が生じたり、あらたに抑圧されるものが生じるという永遠の抑圧の連鎖を、ソビエトの崩壊や、南アフリカの問題などで見るからである。
だから、南米で誕生した「解放の神学」への評価は難しい。自らその連鎖に関わろうとするならば永劫の困難を生じせしめるという自覚がない限り道を誤る。今まで後押ししてきた人々を今度は断罪する勇気が必要だが、永遠にマージナルな位置にいる限りマージナルな存在にしかなりえない。大衆全ての日常に関わらねばならない教会が、永遠の革命運動家であることがいいのか。私には判らない。判るのは民衆が教会にそれを求めねばならないほど抑圧された状況が存在しているのだろうということ。ただ、これらは人間のすこぶる世俗的な問題だ。
普遍の教会は秘跡によってのみ普遍たり得る。普遍の教会がそうであり堅牢ならば、地上の教会である各地方教会は安心して世俗に関わることが可能になる。しかし秘跡で結びつくことなければ単なる政治運動家の集団だ。パーパラッツィはそんなこと考えてるんじゃなかろうか?以前、ギョーカイ誌の「福音宣教」誌でイエズス会の司祭が「典礼は信徒に委ねて、司祭は教導職に」と言ってたけどそれは逆なんじゃないのか?という話を某司祭がしていた。教導、つまり教理面だけが聖職に特化されるならそれはファシズムだ。それこそ一方的に「解放の神学」が断罪されるがごとく、似たようなことが山ほど起こると思うのだな。教会のアカデミズムが聖職に特化されるというのは最終的にそういうことになると思う。逆に司祭は秘跡をしてなんぼの価値ある存在で、それは祭司である聖職にしか出来ない領域としてきたのがカトリックの伝統。カテキズムは信徒でも教えられるけど、ミサはたてられないもん。
で、日本の教会は何故か政治運動が好きなわりに、秘跡性に関してはどこか稀薄だ。迷信深いと馬鹿にしている気配もある。ミサが以前と比べておざなりになっている気がする。典礼がショー化しているのまである。馬鹿げたアメリカンフォークのコンサートを聞いている気にさせられるミサでは秘跡など省みることが困難になる。ああ。確かに演奏は上手いよ。だけどだからナニ?という感じ。これらは司祭自身が秘跡に対しいいかげんに考えているか、誤解しているからだとしか思えない。ラテン語に戻せ、以前の状態に戻せという人々もいるがそれでは解決にもならない。そういうのはなんでもいい。中世なんて自由なもんだった。ただ、秘跡を神の業として本気こいて受け止めているのかの差だ。このような有り様では、ヴァチカンが各教会に口だしをせざるを得ない状況を自分達が招いているということだと思うのですよ。
ベネディクト16世がいうところの「キリスト教の伝統に」という意味はそういうことだと思う。バチカンが中央集権化されるのが嫌なら、ローマカトリックが伝統的に伝えてきた「キリスト教の本質」はなんなのか各個が考えるべきじゃないか。中絶がどうとか、同性愛がどうとか、そんな世俗の倫理のことはほんとうは2次的な問題だと私は思う。世俗の問題は各問題に直面した司祭、あるいは信徒自身が判断することだろうと思うよ。倫理にまで聖座が発布する不可謬的マニュアルが必要になってしまった時代って情けないかも。中世にもあほなマニュアル(阿部謹也が「西洋中世の男と女」とかいう本で紹介していたけどすごく笑えるマニュアルがある。ご夫婦が閨房の営みをする日が細かく規定されてチャート式になっている)はあったけど、各聖職者が勝手に作ったりして、それをまた別の聖職者が個人で選んで判断して用いてたでしょう。
あと、女性祭司の問題は難しいなぁ。結局、可視的な秘跡性の問題になるから。イエス・キリスト受肉の問題にまで繋がるので難しい。世俗的なフェミニズムの観点ではかれないのでなんともはや。世俗での様々な不平等に出くわせば当然むかつくことも多いけど、個人的に教会はそういうのの彼岸にあると思う。
単純な正義が本当に正義なのか?中絶、避妊、女性祭司、聖職者の結婚。同性愛の問題。これらはマスコミなどが好んで批判する問題で、そう唱えれば口当たりのよい正義感をもたらすものだけど、ある種のステロタイプのフィルターは物事の判断を誤らせるなどと思う。各問題に対し、これを否定するのはどうよ?とか、これは教会的には無理。とか私的にも判断が違う。人によっても判断が違うだろうし。難しいやね。世俗の問題は。流動的すぎて。ずっと同じことをいい続けているラッツィンガーへの「かつてリベラルだったが、今は保守になった」などという評価からして、本人は変らなくとも世俗的な価値の変化でどんどん変る。だから世俗の評価など気にしていても仕方ない。我々には2000年から受け継がれた聖書があり、キリストがいる。それを判断基準にするしかない。
キリストを再び十字架につけないためにどうするかなんて、ほんと難しいです。



まぁ、少なくとも何世紀前と比べても、信者である私がこういう風にいいたい放題言えるようになっただけでもすごい変化はあったと思う。なんか今日は結局、マニアックな世界の愚痴になったなぁ・・・・。世の中の方にはなんやわけ判らん話だと思うけど、教会も一つの共同体社会で、山積みの問題があるわけです。私の意見が正しいわけではなく、まぁ色々な意見もあると思うのよ。それぞれが何を問題視するかで結論も変化すると思う。