人文主義とルネサンス

9 人文主義ルネサンスというすばらしい芸術の開花を生んだ幸福な文化的環境は、この時代の芸術家が宗教的テーマにアプローチした方法に重要な影響を受けました。もちろん、インスピレーションは、その様式あるいは少なくとも傑作のもつ様式のように、多様でした。しかし、私は芸術家の方々がよく知っているものを繰り返すつもりはありません。むしろ、私は、世界でおそらく唯一の傑作の宝箱でもあるこの使徒的宮殿(サン・ピエトロ)でこれを書いていますが、ここで豊かな才能を注ぎ、しばしば霊的にきわめて深みに達した最高の芸術家に声をかけたいと思います。サン・ピエトロ大聖堂からミケランジェロは語りかけます。彼はシスティーナ礼拝堂で創造から審判へと、この世界のドラマと神秘を物語り、父なる神と審判者キリスト、そして始まりから歴史の終着点までの困難な道を歩む人間にまなざしを向けています。ここからラファエロという繊細で深い天才が語りかけます。彼の様々な絵画、特に署名の間の「聖体論議」の中で、聖体の中で人間と同行し、人間の知性の問いと期待に光を投げかける三位一体である神の啓示の神秘を示しています。ここから、すなわち使徒の第一人者にささげられた壮大なバジリカから、人間性を快く迎え入れるために開かれた両腕のように開いた列柱から、とりあえず重要な人の名前しかあげることができませんが、ブラマンテ、ベルニーニ、ボッロミーニ、マデルノの作品が語りかけ、教会からすべての人間の神を求める旅のための普遍的で、居心地のよい、母であり同伴者である共同体を生み出す神秘の感覚を造形的に与えています。
 宗教芸術は、この特別な全体のうちに、特殊な能力の表現を見いだし、美と宗教の不滅の価値のレベルに到達していきます。人文主義ルネサンスの、そして続く文化と科学の衝撃のもとで常により特徴づけられるものは人間、世界、そして歴史の現実のために大きくなっていく関心です。このような関心はそれ自体、受肉の神秘へと向かい、神の側に人間の価値をおくキリスト教信仰にとって全く危険ではありません。上述した偉大な芸術家たちはこれを証明しています。ミケランジェロが、その絵画と彫刻の中で人間の肉体の美しさを表現した仕方を考えれば十分でしょう(16)。
 その上、社会の一部で信仰に対する無関心が起こってきた近代の新しい雰囲気の中でも、宗教芸術の道は途切れていません。造形芸術をへて私たちが、同じ時代に、典礼のために、あるいは単に宗教的テーマに結びつけて作曲された宗教音楽がもつ偉大な発展を考えることができるなら、十分に証明できるでしょう。宗教音楽に生涯をささげた多くの芸術家のうち、少なくともピエル・ルイージ・ダ・パレストリーナオルランド・ディ・ラッソ、トマス・ルイス・デ・ビトリアを忘れることがあるでしょうか。また、ヘンデルからバッハ、モーツァルトからシューベルト、ベートヴェンからベルリオーズ、リストからヴェルディという偉大な作曲家がこの領域できわめて優れた霊感による作品を私たちに与えてくれたことは注目すべきです。
16) Cfr GIOVANNI PAOLO II, Omelia alla Messa per la conclusione dei restauri degli affreschi di Michelangelo nella Cappella Sistina (8 aprile 1994): Insegnamenti 171 (1994), 899-904.

ルネッサンスに関して、ヨハネ・パウロ2世は比較的肯定的に受け止めています。しかし彼の側近でもあり教理庁の長官を務めたヨゼフ・ラッツィンガーは必ずしも肯定的には受け止めてはいません。異教的要素や画家個人の個性が全面的に押し出されている人文主義芸術に対して批判的です。ただ、どちらもルネッサンスに関してはあまり正当な理解が為されていないようにも思います。好意的な教皇のこの文書もあまり歯切れのいい内容とは思えないですね。教会史の中では確かに汚点と受け止められても仕方のない時代なのでしょうが、私自身はルネッサンス美術はキリスト教神学が地において実を結んだと申しますか、神学が視覚的に結晶化され、完成されたものだと思っています。
因みに教皇がさらりと流してしまったバロックについて、ラッツィンガーはトリエント公会議の精神に基づいたもので、内側から内面を見る新たな眼差しに導くものと評しています。この時代にはカルメル会のアビラの聖テレジアに代表されるような新たな近代の神秘主義が誕生しました。この神秘主義は大層エモーショナルなもので、今日の一般的なカトリックのイメージはこの時代の造形美術を思い起こさせますから、カトリックってくどい。えぐい。などと言われるのも無理もないとは思います。