ギョーカイ用語の翻訳

外国文を日本語に訳すってのは難しい。特にギョーカイの宗教用語なんて外来種なんで仕方なく日本語の既存の言葉を当てはめざるを得ないんだが、宗教用語だけに、神道用語、あるいは仏教用語を借りるしかなかったりして場合によっては混乱を招く場合もある。神道的な神ではない神を神と表記するのはどうなんよ?と神道側から疑問をもたれても不思議でない。過去においては「天主」などと訳していた。logosは中国語では「道」になっている。音声言語的な「言葉」ではないlogosの訳として中国語における「道」はなかなかいい訳だなとは思ったが、日本においては「言葉」には「言霊」的概念もあるからいいのか。

欧州にも禅宗に帰依する人が増えて仏僧も増えているのだそうだけど、訳による教義の誤解が多いので「日本語を共通言語にする」という話を聞いたことがある。どうしてもキリスト教概念で理解されてしまう為に正確な教えを伝えることが出来なく困難なのだそうだ。それってかつての「ラテン語共通言語」的措置だよね。そのラテン語ですらlogosの概念はラテン世界に於いて分離して「ラチオ(理性)」と「ヴェルブム(Verbum:神の息吹としての言葉)」となり、中世の神学者アベラールが三位一体論でロゴスをヴェルブムとして理解していたって話聞いて、「へぇ」と思ったことがある。ついでにヒエロニムスの誤訳の性でモーゼに角が生えたって話も有名。(参照、ミケランジェロのモーゼ像)

原語重視では教義理解は狭き門となり、しかし現地語重視では本家とずれる。まったく大変なのが訳問題。バベルの塔による言語混乱を怨むぞ。

で、そういう訳の問題で司教様が悩んでおられた。
○それでも!BLOG
http://sdemo.net/pken/Blog/070221#more
■日本語は難しい

どうやらバチカンから日本語のミサの式文の訳が不適切とのクレームが付いたらしい。原文ではet cum spiritu tuo,つまり「あなたの霊と共に」の部分で、日本語のミサでは「また司祭と共に」と訳される。

まぁ、意味的にはそこにいる司祭の霊、つまり神秘をあずかる仲介者である人間(司式を執り行う人=司祭)に満ちた「聖霊と共に」の意味を指すんだろうから、「司祭と共に」では司祭という職務についた人間と共にいるだけという印象を受ける人もいるかもしれない。あくまでも神の働きである聖霊が重要であるんだろうから、誤解を与える記述は不味いとの配慮から出たであろう、バチカンの指摘は実はその通りではあると思う。この場合、冒頭で紹介した禅宗で悩んでいることの逆パターンですね。

ところで「霊」についての日本語は果たして霊魂、幽霊のみを指すんだろうか?最近は神秘主義というかスピリチュアル流行で「精神世界」の「精神」という意味で考えている人も多い。

しかし、そもそも中国語である「霊」などはどういう意味が含まれどのように成立してるんだろうか?例えば魂魄の「魄」とか「魂」などもそれに相当する言語で、幽霊は中国では「鬼」という字を当てる。だから「霊」の用法は中国ではどのように使われているのかその辺りは調べてみないと判らないが、手元に辞典がないんで調べられなくてがっかり。

ほんとに訳は難しいから、正教会などは国文学者かなんかと共に訳したという話を聞いたことがある。ただしすごく古い時代なので、文語訳。だから正教会典礼はすごく難しい。まぁ逆に意味が鮮明になっているものが多くて感心する場合も多い。「生神女」とか。このテオトコスという教義のルーツはギリシャ教父だもんな。さすが東方面目躍如。「クリストコス(キリストを生むモノ)」というネストリウスとは違うんだぞ!ってのを漢字三文字で表現。「金口」ってのはすごい直訳だと思ったけど。
ま、専門家に問うというのは解決の一つの道ではあるかも。神学の専門家と言語の専門家が組めば怖いものなし。

にしても、司教達が頭を並べてうんうん悩んでいる光景が目に浮かびます。たった一言の問題が大変に重要な意味を帯びるのがこのギョーカイの辛いところ・・というか、はじめに述べたようになんでもそうですが、専門分野の言語の訳文は扱いが難しく、エーコの『薔薇の名前』の訳で、普遍論争に関わる言語哲学用語の訳が不適当だとクレームが付いた為に、訳者が苦悩しまくり、その性で未だ文庫本が出ないなんてこともあります。東京創元社も大変だ。そして司教たちも大変だ。色んな仕事を抱えて翻訳の仕事まで背負う。(てか、教会の先ず一番重要な典礼の問題なんだから当然か。)

聖霊の働きがあなたと共にありますように。」でも駄目か・・・_| ̄|○<「あなたの霊と共に」と違いすぎるもんなぁ・・・。

でもまぁ、ラテン教会、つまりローマ・カトリックは元ネタ(ヘブライ語とかギリシャ語)を現地語(ラテン語)に訳してそれ伝統にしばらくしていたんだから、誤訳宗教かもしれん。そういう系譜なら、日本語誤訳もありか。

◆◆
上記の司教様のブログの追加エントリ。
http://sdemo.net/pken/Blog/070222

ますますもってお悩みで・・ほんとに大変だなぁ。「一言に込める」って詩とか、俳句とかやってる人は実感してるだろうけど。

ここで司教が「インドには典礼が三つあるらしいぞ」と仰っておられる。へぇ。面白い。
よく考えたらああた、トリエント公会議までミサってのはモサラベ典礼とかミラノ典礼(アンブロシウス典礼ガリ典礼って各地で色々あったわけで、中世の宣教の段階では現地の事情に合わせた慣習を取り入れたり工夫していた。宣教段階では欧州だってそのように配慮してきた歴史が色々ある。聖人のいくつかだって他宗教起源のものも入っていたり。もともとのその地の祭りが採択され典礼に組み込まれたものも多い(クリスマスとかな。)

日本なんて未だ宣教地区なわけで、そういう混合をしていかないと理解してもらえない要素ってのは大きいだろうし、欧州のようにほとんどがクリスチャンで暗黙のうちにその概念が共有されている歴史が長い国と日本では事情が違う。

司教様が困るのも無理はない。バチカンはそうした中世の宣教の歴史を忘れている。なもんで原則を変えず尚且つ日本人に馴染む言葉を捜さないといけないわけで大変である。いやぁ、こうなったらもういい思いつきを神頼みするしかないかも。インスピレーションって恩寵、すなわち神様からもらうもんだ。わたくし的には。
「(聖霊の働きが)司教と共にありますように」

春めいた日のミモザ

本日、母の仕事場移転の為、我が家に改装工事が入った。玄関脇の応接間はほとんど使われることもなくなって久しく、つまりお客さんが来るということがほとんど無くなってしまったからなんだけど、いまや島犬ミモザ様の住処と化し、応接用の机の下などは見るも無残な、引きちぎったダンボールやおもちゃ、どこからもってきたかわからん破壊されたアイテムの類が散乱し、スラム化していた。
その部屋を母の仕事場にする為、改装工事が入ることとなり、それで先週から母とお手伝いさん(正真正銘のメイドさんだよなぁ・・)とで片付けていたのだが、ミモザはそれが気に入らないらしく激しくナーバスになり、机の下に入り込み、唸っていた。「私の場所を私の断りもなくなんとする?!」という感じ。邪魔なので他に移動させようとそこから引きずり出そうとすると激しく怒って人の手を噛もうとするも、もともと根ががチキンなので痛く噛むなどできない。かくしてミモザ様の神聖なる巣は排除されてしまった。
その後も、その部屋の占有権を主張するが如く、三里塚の活動家よろしく椅子の上で寝ていたりしていたが、本日、内装工事が入り新しいマットが敷き詰められ、ついに出入り禁止になった。ミモザのささやかな闘争は、この手の闘争の運命に足並みそろえるが如く、権力の前にあっけなく屈したのである。

母と「うーん綺麗になったね。ほれぼれするわぁ」などと応接間が綺麗になったのを寿いでのち、居間に移動したわずかな隙にミモザが入り込み、早速、粗相をした・・・。新しいタイルカーペットにでかでかとした染み。「この部屋はわたしのものである」というマーキングのつもりだったのだろうか。とほほである。

母と私が激しくがっくりしたのは言うまでもない。
幸いにして、Pタイルは換えられる。業者さんが汚れた時用に予備を置いていってくれた。まさか完成後一時間で交換する羽目になるとは。

◆◆
本日はミモザの抜糸の日で、医者に連れて行く。術後は順調。既に傷もふさがってかさぶたも取れ、綺麗になりつつある。
私の腹にはまだかさぶたが張り付いている。犬って早いなぁ。追い抜かれてしまったよ。とはいえわたしももう直立歩行をして人並みのスピードで歩けるようになった。外出に不安を感じることもほとんどない。しかし、今日ミモザを車に乗せるためにキャリーケースに入れて抱えて玄関から車まで運んだんだけど、それだけで腹がつれて痛くなってしまった。重いものを持つという行為はまだまだみたいです。

『マーリー』ジョン・グローガン 世界一のバカ犬話

ペットを飼っている人のペット話ほど馬鹿げて見えるものはない。犬を飼っている人の犬話とか猫を飼っている人の猫話とか、まぁ退屈極まりないし、身びいきが酷くてアホかと思う。犬について本をいくつか書いているある動物学者は、犬びいきの性か「猫を飼っている人は社会行動的に問題がある人が多い」などとトンでもな分析に言及していた。(ほんとかよ?)どうにも自分の飼っている種についてひいきしたくなるその状態がすこぶる付きで滑稽である。
しかし、例えば「子供?俺はそんなものいらねぇよ」などといっていた同級生が、正月の年賀状に自分のガキの写真を堂々と送ってくる(しかもお前、美大の癖にそんなセンスない年賀状でいいのか?)。その点を指摘すると「子供を持ったらわかるよ」などと言われてしまうのである。どうも人間、なにか家族なるものが増えると変容するようである。他者から見るとすこぶる滑稽でも、身内のこととなると盲目になる。それは愛情の結果でもあるのだろう。
かくいうわたくしもお犬様を生活を共にするにつれて、そういう傾向を持ちはじめた気がする。ブログなんぞに犬飼以外にはまったく価値がなさそうな『島犬日記』をつけ、ドッグリングに登録しているのがいい例だ。なもんで犬について書かれた本はなんとなく気になってしまうのだな。以前ならまったく無視していたジャンルである。そういうわけで先日『魔の山』を購入したとき、ガルシア・マルケスも買おうとしてやめたそのマルケス本の横にあったこの本をつい買ってしまった。『魔の山』に疲れた時用本ね。結局『魔の山』の最初の章を読み終える前に読み終えちゃった。

マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと

マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと

いくら気になるとはいえ、やはり概ねは犬本というのはつまらなくお涙頂戴的なものが多い。だから解説や作者のプロフィールを読んでやめることが多いのだが、これは著者が『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙のコラムニストだというのでちょっと読んでみようかという気になった。

・・・・意外と面白かった。

犬に関しては犬バカ全開でまぁどうってことはない。よくある話である。バカ犬マーリーはラブラドルの雄犬で底知らずのバカであり、我が家の行儀の悪い島犬ミモザですら彼に比べるとどこぞの深窓の令嬢に思えてしまう。それぐらい破壊的な犬。名前がそもそもボブ・マーリーからもらったという時点でどうなんよ?というような内容である。(但し、犬飼にとってはすこぶる興味深い話だろう。マーリーすごいよ。すごいバカだ。)

しかし面白いと思ったのは、そのマーリーのすごい破壊的な話(網戸は常に穴開き、ガレージは破壊されている。気に入ったメスがいるとカフェのテーブルを引きずったまま追いかけていく)よりも、アメリカ人のホワイトカラーの生活や考え方がどういうものなのかが判った事である。中流より上のアッパーミドルって言うんですか?そういう人が住んでいる生活環境、家のリフォームや、転職活動、フロリダから北部のペンシルバニアに引っ越し等々、生なアメリカンの生活が書かれていてすごく面白い。
子供を産むときの病院の様子、ヒスパニックの多い病棟をその病院のローカルスラングで「スラム病棟」などといってるとか、お金のある人は個室で付添い人も借寝出来るソファがある明るい部屋で、しかも陣痛の痛み緩和の硬膜外注射も保険で出来る。しかし金なしのヒスパニックの人たちは痛み止めも打てないので「スラム病棟」では妊婦たちのわめき声が絶えず聞こえる。そんなアメリカの格差社会の光景がさりげなく書かれる。

フロリダも物騒になってきてついに近所で女の子が刺される事件の現場に居合わせる。この時、飼い犬の世界一バカ犬マーリーが実は頼もしいのだということをはじめて知る。近所では一人暮らしの老女が殺される事件が起きたりと、アメリカ人に犬飼が多いのはこういう環境の性かもしれない。近所にそういう殺傷事件が多いって。。どうなんだ?怖いぞ。犬も飼いたくなるよね。

フロリダには犬仲間の楽園の自然な海岸があり、そこは飼い主同士が暗黙のうちにルールを設けていて、それを守ることの出来ない犬はそこを使えない。(バカ犬マーリーは一度行って二度といけなくなった。)その海岸が法によって使えなくなるのは困るというので法が施行されるまで、飼い主達が署名運動をしたり抗議運動をしていても、結局法が施行されるときちんとルールを守るアメリカ人の一面は興味深い。

犬を通じて知るアメリカの人々の生活はまことに面白かったので、この本は「犬の生態本」ではなく、「アメリカ人の生態本」として愉しんでしまいましたとさ。

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そういえば妹夫婦がついに日本に帰国した。
上記のごときアメリカンな環境で生活していたのだが、もう、ジョギング中に出くわすピューマにおびえず、幹線道路沿いに横たわる鹿やらなんだかわからない動物やらの屍骸も見ることなく、玄関前で警戒態勢に入ったスカンクと対決する、そういう野味あふれる生活とおさらばで、ぬるくて安心な日本の生活に戻れてほっとしているようである。

因みにスカンクはものすごく行動が遅く、しかもチキンだそうで、脅かすととんでもない目にあうらしい。スカンクが発するアレは数キロに渡って匂うらしい(ほんとかよ?)朝目覚めと共に外気を吸いに外に出るとタマにスカンク臭がするときがあったらしいよ。うっかり脅かして匂いのシャワーを浴びると大変だそうだ。石鹸で洗ってもなにしても取れないそうだ。なんだかトマトかなんかで全身洗うといいらしい。