『バウドリーノ』ウンベルト・エーコ 中世から人間は進歩していない

元旦だ。
昨年はツイッタにはまってブログを放置しまくった。その間、世間様では様々な事件が起きていた。尖閣諸島で中国様があやしからん行為に及び、日中両国が国家間でナニか事なかれ的に済まそうとしたところ、証拠ビデオが流出し国民の怒り爆発、双方の国家的面子がやばいことにとか、Wikileaksだかなんだかいうアサンジ君の世界規模の告発サイトが問題になったり、まぁ情報が容易くネット上を駆け巡り、国家と情報という問題を突きつけられた年でもあった。
ゆえにわたくし的には2010年の文字は「暑」ではなく「書」じゃね?などと思ったりしてしまうのであるが、そんな折、タイムリーに「書かれたもの」すなはち、メディアというものを考えさせられる小説が二つほど登場した。
一つは暮れに出た佐藤亜紀の『醜聞の作法』そしてもう一つがウンベルト・エーコの『バウドリーノ』である。どちらも舞台は過去。近代と中世のヨーロッパではあるが。

佐藤亜紀の小説に関しては別エントリを立ち上げて書こうと思うのでここではエーコの小説について書く。

バウドリーノ(上)

バウドリーノ(上)

エーコは中世美学などの研究をしていて、これはもうまさに彼の守備範囲そのマンマの小説、中世ヲタなら知っているあらゆる中世に存在したへんてこなシロモノの羅列、展示場状態。中世の宇宙観から、世界観、プレスタージョン伝説やアーサー王伝説にも連なる聖杯伝説、その他聖遺物にまつわる数々の伝承、山の長老の暗殺団、柱頭行者、地の果てに存在するであろう怪物じみた人類まで登場するという豪華キャストである。更にはニケアコンスタンチノープル信条の成立に関するもろもろの事柄やら異端思想(勿論、景教も登場)。挙句、TO図*)まで図で載せてくれるほどのサービス振りには泣けてくるという按配。

*TO図
中世、西方欧州の世界地図。Oを世界とし、その世界はTの形をした地中海で区切られている。上部は東方、つまりアジアであり、下部の北サイドにヨーロッパ、ミナミサイドにアフリカが存在する。この世界の中心はエルサレムであり、西方キリスト教徒がどのように世界を考えていたか判る。で、イスラム教徒によって分断された東のそのはるか彼方にははぐれたキリスト教徒の王国、つまりプレスタージョンの王国があると信じられていた。
また、欧州から離れれば離れるほど人類は奇妙な形状をしていると信じられていて、アジアの果ての地(インドとか中国辺りかの?)には足で陰を作って寝転ぶスキヤボデスとか一つ目の巨人とかが徘徊してると考えられていた。自分の土地から遠くはなれるほど怪物がいると考えたわけだが、このなんとも失礼な発想は欧州人だけではない。中国人も同じようなことを考えていた(参照『山海経』)のでおあいこである。

で、この小説が面白いのは「中世オタが涎たらすネタだらけ」ではない。

当時のメディアは書簡であった。書簡は多くの人に閲覧され、それは写しとられ、更に多くの人が目にする。それらの書簡に書かれたことは、多くの人の噂になる。旅をする商人や職人が街道の徒然でその話をする。当時のアカデミズムの場でもあった修道院にはそのような写し取られた「書簡」や「書物」が集積される。また、写し取るとき正確に写し取られるというわけでもなく、そこでは「政治的思惑」によって意図的に不正確になっているものもある。

あやしげな奇跡物語も、聖人譚も、魅力的な神話や伝承も当時の人々にとってはそれは半ば現実世界のことでもあり、権力者達はそれら迷信じみたものを信じていなくても、権威付けの為の素材であったり、戦争や侵略の口実、己の正義の為の補強材料として大いに利用していたというその光景を描き出したのがバウドリーノの前半の物語であり、後半はその物語世界に翻弄される冒険物語になっていく。

この物語の面白さは、紡ぎだしていく情報が既成事実化されていく光景と、既成事実化されたが為にその渦中に飲み込まれてしまった主人公達という、つまり我々が今まさにネットというバーチャル世界で常に体験していることを、中世という舞台でスライドして見せたということでもあるだろう。ガセネタを信じてRTしてしまったり(それは先日のわたくしだ!)、それが一人歩きしていつの間にか「真実化」してるなんてのはよくあること。

こうも情報の洪水に晒されていると終いには疑り深くなる。我々の知る「情報」は果たして真実なのか?それはなんらの意図を以て為された作られた真実ではないのか?ウィキリークスは「作られた情報」を忌避しようとする我々の情報欲望に応えて登場したメディアではあるが、そのウィキリークスの情報すら「なんらかの意図を以て流された」のでは?と妄想たくましくするものも登場した。

そのWikiLeaksに関してウンベルトエーコがコメントしている記事があった。
▼Not such wicked leaks
http://www.presseurop.eu/en/content/article/414871-not-such-wicked-leaks

英語なんで、英語脳がない私には大雑把にしか判らないが興味深い。

最先端の技術の結果が再び過去の技術を呼び戻すとかあれこれ言ってるのだが、「歴史」のお勉強するのが嫌いなオカルト野郎がいく神秘主義本屋の棚にある本はあらゆる古い本の焼き直しに過ぎないんだけどオカルト君たちはそれを無批判に信じてるんだよねー。ダンブラウンが成功したのはこういう馬鹿が・・・以下略(当方に英語力がないため大意)的な話などは『バウドリーノ』を読解するポインツなんじゃないか?と思った次第。

「歴史」というのは、物語を紡ぎだす。塩野七生は歴史家に「あんたのは歴史じゃない」といわれたらしいがまぁしょうがないだろうなぁ。歴史的事実というのは藪の中のものであり、「真実」というのは取り扱いが難しい。情報においてもまた然り。本当のことを語ることは誰もできないんじゃないかと。その点で主人公バウドリーノは大変に正直者である。自ら嘘つきだと告白しているからねぇ。自分は嘘つきだというクレタ人か?

バウドリーノの物語は、中世の中に存在した様々な伝承の集積という点では真実である。当時の中世人が果たしてそれを真実だと思っていたか判らないがそこで語られる世界はなんとも楽しげで、幻想文学好きなわたくし的にはわくわくしてしまうのである。

まー、とにかく中世とか知らなくても冒険小説としても面白いのがエーコセンセのすごいところだな。『薔薇の名前』よりとっつき易いと思うので、エーコ読んでみたいけど中世神学とかわかんないしコムズっぽい気がしてやだと思って敬遠していた方はこれを機会に読んでみるといいと思うの。