村上隆の作品が受け入れられないだろう理由を考えてみた

昨日のエントリへのブコメです。

(注 以下の文言にはオタクな方には不快、且つループな表現が含まれています)

letterdust モードブランド好きが「軍服って機能ばっかりで服として認められないけど、パリコレの新作のミニタリーテイストはいいよね」と言うのを聞いても、たぶん軍の人はふーんとしか反応しようがない気がする。

NaokiTakahashi 村上隆のは食えない。そりゃいくらでも尖れる。その安易さがオタクに受けない

rory_No27 なるほど。あのむかつき加減はベタベタなのか。村上の作品は残すのではなく、盛大にぶっ壊してやれば芸術として価値が生まれるかもしれない。
kadotanimitsuru 村上隆は「萌えのパロディー」でしかないから「ふーん」としか。

ブコメ有り難うございます。
村上隆氏への言及の部分を引用してみました。

村上隆についてですが、彼の作品が日本で受け入れられない理由というのは、なによりも日本で育まれた文化であるアニメがああいう形で消費されたように見えるからだとは思いますね。つまりああいう表象の文脈を知っている日本人、特に日本のオタク達はまさに村上が「萌え」的な構造にも見られるような消費アプローチをオタク世界に仕掛けたからだと思います。つまり、作品の文脈無視してなんでも「萌え」に落とし込んだりするのと同型の光景がある。作家が「萌え」で読むな。作家の意図を汲んで読め。というものと同様の不快を想起するんだと思います。アニメにはアニメを育み大切にしてきた歴史があるし、そういう文化がある。それを尊重しろよと、アニメ世界を育んできた人達は思うだろうと。
だからわたくしも村上作品というのは受け付けることは出来なかった。「萌えビウス」とTシャツに書くメビウスはやっぱ偉大だとか思っちゃったりします。

しかし村上隆を別の視点で見るならば、現代美術で起きている或る種のムーブメントに乗っかっているし、現代美術という巨大な金が動くようなネオりべ的世界に、大量消費という媒体での表現が目的の企業形態を持つアニメを記号化した一点モノ作品として世界市場に持ち込んだ辺りというのは面白いとは言えます。町山氏が指摘するようにこういう動きは80年代にすでに国内で起きていて、日比野克彦もそういう文脈ではあると思いますがそれがもっとあからさまにとんがった感じになったとは言えますね。町山さんは葬りたかったようですが、たぶんああいう不快を想起する事も想定済みなのが村上で(だから余計に町山氏がむかつくわけだが)、世界的なネオリベ的なるものの記号としては、寧ろああいうほうがより相応しいんじゃないかとは思います。
彼が今後どういう方向に行くか判りませんが、ああいう「市場経済」世界をアートで踏みつぶしていく動きとしては今後も着目はしてみたい。


個人的には、わたくしは大量消費文化がどうも苦手だし、また、美術の村上隆的方向ネオりべ的な動きというのは、小飼弾さん辺りは肯定的評価をするかもしれませんが、わたくしは上記のように評価したとはいえ、あえてそういう方向には抗いたいとは思っています。

◆◆
以下、気になったものを

ええと、言及した高橋さん。コメ済みません。

NaokiTakahashi どこまで変なマヨネーズ料理を(食えるレベルで)作れるか、というとこまで行ってるから。今のエロゲ屋は。全員がそうではないにしても/

それはすでに「なんでもかんでも醤油をぶっかけている」とは違う光景では?
そしてそのマヨネーズ料理を「醤油」でしかとらえられて貰えなかったら_| ̄|○となるんではないでしょうか。

kadotanimitsuru佐藤氏も高橋氏も批評家じゃなく作家なんだから「キャッチボール」は程度の低いblog論評でなく互いの作品を読解することで行われるべきでは?

んですね。まぁ、読者としては作品の背景にある言葉ってのも面白いもんではあります。ただ実は作品のほうが遙かに雄弁だったりしますね。佐藤さんの『ミノタウロス』は是非読んで欲しいな。それもブログに書かれている事をいったん全部忘れて読んで欲しい。

で、「変なマヨネーズ」料理とおっしゃる高橋さんの作品に興味はあるんですが、いかんせん別の問題でその作品を買ったしてもやり通す自信がなくて、面目ない。自分の中にあるハードル「エロがゲームになってる」に引っ掛かって進めない。作家に対しては済まんことではありますが。

soulstice 正直痛いです。痛過ぎます。ハイアートとローアートの性質を所与のものと分けることが、「高踏的」スタイルの死姦的な引用とフェティシズム化をもたらしたというアドルノの現代音楽についての議論とかご存知ですか?

うわ。なんかよく判らない呪文ざます。難破船さんぐらい長い文を書いてくれないと「痛い」馬鹿には理解出来なさげざます。それでも誤読しそうざます。


まぁ。アドルノって人がナニ言ってるかよく知らんが、大衆の反逆的問題やポピュリズムというか、そういうのって、例えばキリスト教史でも大量にあったりして。(例えば、聖遺物や聖人を取巻くものや、中世の異端問題とか)エンドレスな現象なんじゃとは思いますね。

因みに聖遺物関連のポピュリズムってのがこれまた面白い↓

聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社選書メチエ)

聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社選書メチエ)

現代人から見るならただの馬鹿列伝ではある。しかしこういう大衆のダイナミズムってのは否定したくはないな。