昨日の続きで鑑賞者の話とか書いてみる 追記有

昨日は佐藤亜紀氏のエントリを読んでの所感を大雑把に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20090811/1250013170

佐藤亜紀と異る芸術姿勢で作品を作るゲームシナリオライター高橋直樹のブログにも言及しとかないとバランスを欠く。
高橋氏と佐藤氏の応答が、ここのところのヲチであったんで。

○NaokiTakahashiの日記
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090811/p1
■「萌え」に限った話じゃないけどさ

高橋氏曰く「ストーリーに浸かって感情的に(正負の方向はともかく)揺さぶられることを楽しむんじゃなかったら、創作フィクションの形式を取ることに意味があるとは思えないんだよな。純粋に知的な目的で書くんなら哲学なり社会学なり心理学なりの論文にでもしろよと思う。知的な探求としては学問のほうを信用するよ。」

・・・というのは、個人としての表現物への態度として、それでよいが一般化されるものではない。佐藤亜紀同様それは個人と表現との関係性に過ぎない。
そして、佐藤氏と高橋氏のスタイルは真っ向から対立する。

もっとも、これについて高橋氏自身がブコメに於いて「俺の考え方もこれはこれで狭いのかなあとも思えます。」と吐露しており、個人的なものとしてこうであるよという前提で書かれているだろうから批判するものでもない。ただ、佐藤亜紀氏と議論するにあたっては、その視点を一回相対化しない限りは不毛だろうなと。全く異る感覚の人同士が、平行線を辿ることをわめいているようにしか見えんというか。個としてそれは正しいんだが、少なくともキャッチボールしようと試みるならば。
ただ、表現者の個人として双方とも、その己の世界を引き受ける覚悟があるところにおいて、偉いなとは思って眺めている。


というわけで、上記、エントリについては、以上の所感しかないが「消費される表現物」について書いておこうかと思う。


私は昨日書いた通り、俺様キングダム世界においては「消費される表現物」というのがあんまり好きでない。つーか表現物は消費されるんだが、「消費されることが目的に特化されたような」というべきか。ただ兎に角大衆の欲望なりが記号化されたというか、マーケッティングされたような表現物、商業主義的なにほひがふんぷんとするような表現物。
・・・・・・・うーむ。
文字にすると、それってあらゆるものが実は最終的にそうじゃね?という感じで分らなくなってしまうんだが、ディズニーや萌え絵に代表されるような大量消費的な要素が記号化されたようなんがどうも苦手である。


佐藤亜紀は「萌え」という単一された消費行動には否定的で、寿司食う時も、そーめん食う時も、お好み焼き食う時も、スパゲッティ食う時も、揚げ句、パン食う時もなんでも醤油ぶっかけてしまうような観賞態度を批判している。素材台なしだろそれ?をい?みたいな。マヨラーとかな。

昨日書いた通り、作品は自立すると思ってしまうんで、まぁそういうのもありだろというか、そのすざまじいまでの萌え手法による世界の耕しっぷりのパワーが面白いので、先日も書いたようにそれを批判されると工エエェェ(´д`)ェェエエ工と、なってしまう。私は萌え物体は好きではないんでそのものを観賞はしないというか、そもそも脳内の萌え能力が欠如しているのだが、萌え鑑賞者を観賞するのは愉しい。

ただ、その「萌え」という単純な観賞の仕方を評価しないという佐藤氏の主張にはうなずけるところもある。


(注 以下、オタクな方に刺激的、且つループな表現が含まれています)

例えば村上隆の作品は「萌え」的なるものを扱っているが、あれは表象に見えるものだけで判断すると見誤る。作品を作るプロセスすべてが含まれて評価される対象となる。
正直、そこに具現化したものは全く私の好みではないというか寧ろ神経を逆なでするものが記号化されているのだが、そうした逆撫でもまた目的の一つではあるだろうが、村上隆がかつてアニメーターを目指していたことがあると聞いて成程なとは思った。単なる「アニオタだからフィギアかよ?!」というのではなく、「アニメ」というモノを産んだ産業システムのプロセスをすべて創作の一環の中に組み込んでいくという手法をとっていることに着目したい。彼自身はぱそも使えんような御仁であるが、アニメやゲーム産業が複数の人々によって成り立つように、彼自身の作品も、美術という些か個人作業的、工芸的な世界に、大量消費産業の手法をもち込むことで「アート産業」への皮肉な視点もが包括される。その点ではマルセルデュシャン的であり、正しくウォーホールの伝統を受け継いでいるとは言える。
つまり、こうした文脈を知らないと誤読されてしまうということはあるだろう。

正直、表彰されたものは俗悪の極みであり、アニメや萌え系のファンが怒るのも無理はないような形象であり、剽窃などと言われてもその通り的で、しかもドラゴンボールの悟空(あるいはFF7クラウド)のごとき3D化された頭髪のバカさ加減とその馬鹿頭男が晴れ晴れとした面構えで健康的に射精をしているとか、乳さえでかけりゃいいのか?のデフォルメ等、アニメや萌え文化に大変に挑発的。喧嘩売ってるとしか思えん。

表象を追うならば、単なる日本の記号化された形式と読み取ることも出来るのだが、それだけでは反発する心理の方が大きい。わたくし自身、アニメ的なるものを記号化するよりも本物アニメの方をもっと評価されて欲しいなどと思っていたものだった。が、作品を作るプロセスに「ビジネス」という手法を取り込むこと自体を作品化しているという点で、非常に実験的行為ではある。それは東西の壁が壊れたあとに新たに問題となった価値、ネオリベ的なものへの回答でもあるだろう。
そうしたプロセスすべてを知って後、作品に対すると評価は違って見える。

もっとも以下の町山さんの感覚はすごくよく判るんですけどね。そそそ、そういう腹立たしさってあるよね。みたいな。

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040217

村上隆作品を取り巻くモノにはどこか人を逆撫でするようなとこがあって、町山さん同様「このくそばばばばばばっばばか野郎!」といいたくなる。
ただ、生村上隆に会って思ったが、素で「ドポチテ、ドポチテ」とか言ってしまうような、それも計算でもなく素で。そんな変に抜けたとこがあるんで、実像と虚像のギャップのある人ではあるなとは思った。

まぁ兎に角、一次的に得た感覚をもう一度検証しなおし、全く異る視点でみる等、単純な方法で消費するのではない、観賞の仕方の愉悦というものはある。ぐじぐじと掘り下げて愉しむような、そんな脳内ニューロンドーパミンを駆使して愉しむ観賞というか。
そしてわたくしはそういう愉悦がすこぶる大好物である。佐藤亜紀が様々な評論でぶった切ってみせている、その姿勢、そのスタンスは、わたくし的にそれはまったく正しく愉悦である。だから例えばアートを「知的なるもの」としての実験展開してくれるようなものがあると、わくわくしたりする。エンタテーメントも好きだけどね。時々違う脳を刺激されるのも好きというか。



ところで、村上隆の作品。表象がアレなんでやっぱり家に置きたくはないなぁとは思ってしまうが、ドンなヤツが買ったんだ???

◆◆追記

昨日の記事に追記として大蟻食さんからの反論記事の紹介を記しておいたんで、それも読んでください。
反論というよりは当方の誤読の指摘と、日記への誤読があちこちで散見されていることで、日記への補足説明のようです。
それについては後日考えをまとめてうpしようかとは思っていますんでヨロスコ。