芸術脳ではアナキズムでありたいものだ (追記有り)

エロゲ絡みで、表現されるものとその評価的な話を色々読んできた。所感メモでもしとく。

わたくしはまぁ表現者なんで、自己表現世界に於いてはかなり狭い世界観で物事をみる。しかしその自己の表現世界ではなく、広く一般化された「芸術」という単位では、自己の価値をいったん棚上げして見る事は多い。

たぶんこれは、創作者でなく、美術の教育者的な立場として考える機会も多いからなんだが、同時に創作時において「おのが主観世界を他者的に検証する」「その検証の後に、一定の狭い範囲を確信的に選択し、表現する」という手続きを無意識でしていたりもするからかもしれない。なんつーか芸術の神様的な視点で見たのち、己にフィードバックされるというかそんな感じ。常に他者的な視点が内在している。外部者視点があるんで耶蘇脳と読んでる時もある。突っ込み小人ともいう。

こういう視点の欠点は相対的になりがちで、創作に於いて突っ込み小人が絶えず存在して邪魔をするんでわたくし的にはすごく困ったりすることもあるんだけど、他者作品の評価という点では、己の文脈はいったん棚あげされちゃったりするんで、鑑賞者の立場においては「なんでもありだろ」という、つまり「芸術表現はその主観世界に於いては外部的価値から切り離されたアナーキズムであるべし」的な結論に達したりするわけです。

創作者としては俺様世界においてファシストたるべし、相対的な位置に置かれた鑑賞者としては作品はアナーキズムたるべしみたいなのが自分の中で同居してるんで、時々ナニがなんだか判らなくなることはある。自分がどっちの立場でモノ言ってるのかな?というか、どっちも自分の考えから出るんだけど、その結論が対立する時すらある。自分的内部矛盾ですな。


そういうわけで、以下の佐藤さんのブログ記事への所感を書いておく。
幾つか誤読はあるかも知れないが。そしたら済みません。

佐藤亜紀の2009.08.10の「日記」
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/08/2009810.html

ここで佐藤亜紀は、挑発的に「萌え」という表現物消費構造に喧嘩を売っている。その対象は萌え一般のみならずかつて自分自身が通って来た道としてのBLも含まれる。そして曰く、
「ジャンクで終わりたくなければ勉強したまえ」

いや、こう言われると「ジャンク上等」と切り返したくなる自分と、「そうだ、ジャンクは目障りだ氏ね!」という自分が同居してるんで、困るわけです。

まず、「芸術、アート、表現物」という一般化された概念を語る場合には「ジャンク上等」と言うしかないし、「萌え」というスタイルの観賞をことさらに他と比較し優劣するのはどうよ?とは言っておく。

個人的には、すべての表現物への観賞態度というのは、自由たるべしというか、誰かに決められたくもないし、作品を誤読しようが、発展させようが、それも自由だろと。すべては流転し、絶えず変化していくというのがわたくし的にはのぞましい芸術環境なんで、あらゆる束縛からの自由があってほしいと願うわけです。
学生なんか教えていてもね、自分と異る価値の創作者がいるわけで、その異る価値を認めて伸ばすってのをしなきゃならん。紐付きはまっぴらご免というのは、まぁそういう文脈でも出て来る思いではある。そのジャンルに於いて一流を目指せよとは思う事はあるけど、ジャンルそのものの否定は出来ない。

しかし転じて、自分的個人の好みな世界というか俺様世界となるといきなり佐藤亜紀のこの主張には思いっきり賛同したくもなる要素はある。

わたくしは、なんというか昔っから「快楽として消費される表現」的なモノが好きではない。ガキの頃からディズニーのアニメがすごく嫌いであった。マーケッティングされた、児童にはこういうのが快楽だろ的な記号が透けて見えるような代物としてのディズニーアニメやあるいはテレビアニメの絵が好きではなかったし、遊園地もなにか「遊ばせてやる」のに特化されすぎた施設として嫌いであった。

「萌え絵」という表現物は全く好みではないし、寧ろ嫌いである。それは快楽的な消費が記号化された表現として、個人的な感覚の嫌悪を想起する。
で、わたくし個人にとってはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の方が萌え絵だ。あれを見るとドキドキする。ガキの頃の私の琴線に触れていた絵はテレビのアニメ絵ではなく『不思議の国のアリス』の原作の挿画のテニエルの版画であり、パウル・クレーであり、レオナルドであった。クレーなんぞは真似して模写を描いていた。そういうわけで幼稚園の頃に周りと違う絵を描いているのが不安になり、友人の真似をして普通の絵を描く努力をしたこともある。サザエさんの模写とかな。(なんでサザエさんだったんだか、それも変だ)

かように、どうにも、こうにも普通じゃないので、こういうのは一般化されないのは当然だろうなとは思う。この俺様感覚「アニメ絵なんぞどこがいいんだ?!」「色彩感覚が鈍いのは赦さん」「デッサン力のない絵は認めん」で一般論を唱えはじめたら十字砲火浴びると思うぐらいにはズレとることは自覚している。

しかし己の絵画世界では、レオナルド萌えとか、北斎萌えとか、国際様式絵萌えとか、好きにやらせてもらいますよ。んで、更にそういう方向にオタクなので、その歴史文脈をぐじぐじいじくって考えるのも好きである。(中世神学とか、中世思想とか。面白いでげす。近代?西洋近代はどうでもいい位置においてるんで、わたくしの守備はかなり狭い)
で、そういうなんちゅーかかび臭いにほひがしそうなぐじぐじといじくったりする趣味世界の延長で佐藤亜紀の世界もあるんで、わたくしは佐藤亜紀という作家の読者である。ゆえに上記日記については個人的な趣味文脈として賛同したくなる。「観賞する時に文脈はちゃんと押さえとこうぜ」とか。そういうのも含めて。


ああ、そういえば実はBLも好きではない。なにやらBLの友人がいて、彼女の勧めで一緒に「アナザーカントリー」を見た事がある。そのころはまだBLという言葉は存在していなかった。男同士の恋愛映画なんぞ見て、退屈で眠くなった。そもそも恋愛映画もそんなに好きではなく、他人の恋愛を見るのがなんで愉しいのか判らん。リア充でもないくせに恋愛は自分がするもんじゃないのか?と思っていたので、ホモだろうがヘテロだろうが他人様の恋愛なんぞには萌えない。

ところがである、BLに萌えたり、萌え絵に萌えたりしている人を眺めるのが何故か好きである。「萌える」という人の営みが好きというか、それで盛り上がっている人達の言論を読むのが好きという変な感覚があるので、BLや萌え関連世界を否定する言質に出会うと工エエェェ(´д`)ェェエエ工などとは思ってしまう。あんなに面白い文化なのになんで?とか思ってしまう。膨らんだフリルや、奇妙な構造すら、それはよしとしてしまう。つまり寧ろその謎な構造体な服を着た目が異常にでかい。どれもこれも似たような絵そのものはどうにも好きにならんが、しかしそれ無くして成立しえないその世界全体は好きという按配。

なんでもかんでも萌えにしたり、BLにしてしまう営みという人の逞しさが面白いというか。
こういう時にその作品と鑑賞者の関係性に対し貴賎などはあまり考えない。中世オタも哲オタも、鉄オタも、萌えオタも、兎に角なんらかの対象にぐじぐじとこだわり続ける人々が好きといいますか。その対象が理解出来なくても、「対象物にのめり込み没頭するという光景」が好きなんでしょうな。

そういうわけで、今回の佐藤亜紀氏の論評に関しては同意は出来ないんだが、佐藤亜紀作品を知るモノとしては、上記の日記の如き心理から生じる世界への怒りが作品にフィードバックされていたりするその世界は好きであるので、まぁ作家としてはそうであって欲しいという矛盾した感想を抱いた次第ではある。


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続きを書いてみた
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20090812/1250076345


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追記

大蟻食、佐藤亜紀さんからこのエントリへの反論、お返事がきました。
トラバは受付ないとのことで、こちらからは送りません。こちらもURLを送るべきか悩ましいところですんで、
「大蟻食の生活と意見」でググッてみてください。

「萌えを否定しているわけではない。それは誤読だ」という指摘にはじまり、上記の佐藤亜紀氏の日記記事の補足説明となっています。

併せて読んでいただけると有難い。