個性とはそもそもなんだかよく判らない件について

大野さんのブログ経由で色々な方が「個性」について、そして美術教育についてお話してるのを読んだ。どうもはてな界隈でのホットなネタらしい。
○Ohnoblog 2
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080706
■個性は獲得目標ですらない

○地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080702/1214984474
■2008-07-02 個性と個体差の違いがわからないのは文化とはいわない ーそもそも君らに個性などない

○小学校笑いぐさ日記
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20080706/1215366481
■幼児期の「個性尊重」こそが子どもを押しつぶす。

なんか色々読んだ。トラバ辿っていくと様々な人が書いたエントリが大量にあるんだけど読んでいるうちにないがなんだか余計に判らなくなった。

どうも「世界に一つだけの花症候群」から来た話らしいんだが、その個性の問題となると美術の話が出てきてしまうってのもなんだな。なんか個性=美術というのが世の中のデフォルトなのか。よく判んないんですが。そもそも美術教育って昔にあっては師匠について師匠の様式学ぶっていう、つまり狩野派とか、ナニナニ流みたいな個性抹消型の教育させられるんで、その辺りは美術教育に詳しい大野さんが既に説明してるんで今更いうまでもないですが。まぁ蛇足してみます。
西洋美術史なんかでいうとレオナルド・ダ・ヴィンチは師匠のベロッキオの影響残しとるし、それ以外にも同時代の先人達の様々な影響が及んでいる。フィリッポ・リッピやボッティチェルリ、ギルランダイヨやドナテッロなどの片鱗が見て取れる。ルネッサンスやそれ以前の絵画などはそもそもがキリスト教美術で、教会の典礼用絵画なんで職人的であり、己自身が何者かなどアピールすることなど念頭にもない。アピールしてるならばそれは単に仕事をとるために必要なファクターに過ぎず、教会絵画の目的はあくまでも教会の祈りのための装置であるがゆえに全ては教義的なモノの婢にしか過ぎなかったわけだ。当然、絵にサインなどない。キリスト教の美は神に統合されねばならないので人間の個性は等しく謙遜を要求され、個性的な主張はこういう場では却って邪魔になる。故にルネッサンス美術は厳格なプロテスタントには嫌われた(聖書に忠実な絵はそれなにり評価されもしたし、必ずしも美術は全て悪いといってるわけではない。一部の偶像崇拝を厳格に禁じる教派でもそれは同じである)或いは典礼をより重要視する正教会などでも西のキリスト教美術の世俗的な有様は眉をひそめられている。
その教会から解放された絵画世界は広がりを持つことが出来た。モダニズムともなるとその様式的なものというか表現の幅があちこちに広がり、ピカソの絵とかモンドリアンの絵とかルソーの絵とかは、中世とかルネッサンスの頃に比べると個性度数は遥かに強い。だけどそれらは己の個性の探究ではなく、視覚言語における実験的なものというか、視覚記号をを通じた思想の展開であるので、自分の個性を伸ばした結果ではない。
つまり美術ってのは個性を探求するもんじゃない。

なので、どうも個性というと美術ネタ?ってのがもにょり観がある風景ではあるです。
まぁ視覚情報というのは端的にその人のあるがままを表すので個体差が目に見えて判るに過ぎないというか。そんなもんだと思う。

で、まぁ上記で、小学校での教育の話を書かれたfilinionさんの話が面白かった。別のブログでの美術方面を目指した子供の話が紹介されていたんだが、某N君とやらが他の人と違う表現をしていたから美術を目指したとかいう話。子供の時からそんなことを自覚しているのがすごいなとか思った。

わたくしは実はガキの頃は絵が褒められたガキであった。独特の表現をするとか、なんかそんなことを言われていたようだ。原色が嫌いなので中間色ばかり使っていたが、紫などを使うので母が心配して精神分析の先生に相談に行った始末であった。単にクレヨンにある中間色が紫とか緑とか橙だったからだ。しかし子供心にそんな自分が不安であった。周りは絵を書く時マズ輪郭をとって中を塗りつぶす。自分はそうでなかった。周りの子が描く人の絵と自分の絵が違っていた。それが不安であった。
そういうわけで周りの子のスタイルを真似て描いたこともある。己の個性はよくないものだと思っていたのだ。社会から外れるというのはいじめの対象になりやすいということをその頃から無意識に感じていた。私が母の職業がアパレル関係だったもんで個性的な服を着させられていたことにより、幼稚園の時それが理由でいじめに遭ったことがある。幼稚園の時の話なんで自分的には記憶にないのだが、妹と私は仲間はずれにされ妹は別の幼稚園に通うことにし、わたしは幼稚園を休園してずっと京都の祖母の家に預けられていた。そういう背景があったせいなのか、とにかく公に褒められることを畏れた。褒められるというのは目立つことでありいじめに遭うのだ。なので絵も周りと違う絵を描いているのはなにかいけないんじゃないかと真似たりしていたのだが、それだとなんかすごくつまんないんで結局元通りに戻っちゃたりしてましたです。

こういうメンタルだと、自ずと自分の行動が社会においてどのような結果になるか観察する視点が必要とされてくる。小学校に入ってしばらくはいじめなんぞ無くなったんで天真らんまんに生きとりましたが、高学年の後半になるとやはりいじめ的世界が再び生じ、いじめが色々あったが、誰かを特定してずっといじめるというより、いじめが流動的で対象者が変動するようないじめ状況であった。その為いじめられぬような知恵を回さねばならず、学校のテストの点を高得点を取らないよう工夫するとか、芸能人の話題を勉強するとか苦労させられた。変な苦労をした時代であった。つまりここでも個性的に生きるのではなくおおいに空気読む作業をしていたのだな。そんな毎日は激しくつまらないので、中学から私学に逃げた話は以前書いた。お陰でおおらかに生きることが出来てよかったのである。その代わりかなり馬鹿で凡庸になったかもしれない。相当ナニも考えずに生きてきたことを今は反省している

個性的に生きるなんてのは教師や親が言っても子供には子供の共同体と社会があるんで、土台無理な話ではある。そもそも親が自分の所属する共同体で目立って変な奴を批判してたらそりゃもう駄目駄目だろ。などと思うのであるよ。近所の変な人、職場の変な人、周りと違うことをしていて目立つ人にどういう評価下してるか考えたことはあるのかな?などと思うんだが。

で、美術ネタだが、絵を描くというのはtikani_nemuru_Mさんがかかれているけど

個性などというものが自分にあると思っているから、それを出すのが芸術だと思っている。基礎訓練をしようとしない。基礎訓練の重要さを説くと、「感性」だとか言い出す。

基礎訓練部分がまず必要であり、その訓練とは大野さんが指摘している

「視覚的写実性」に目覚めた子どもにとっては、当然のことながら遠近法に始まる技術体系の習得が必要になる。絵画における共通言語となっているそれをマスターし、誰にでも通じる言葉で喋れるようになることが第一歩だ。

ということである。

それを獲得するには他者的な視点、つまり己自身を客観的に見据える訓練が必要なわけだが、私自身を振り返るならば、まさに「個性を出せばいじめられる恐怖から獲得した他者的視点」つまり個性を出さない為にどうすべきか考え続けたことが、美術の基礎を学ぶ時点でかなり役立ったと思う。だからといって私の体験が全てではないんでなんとも言えませんが。ただ美術教育というのは個性を出す訓練ではないよ。違うよ。とは言いたいですな。まぁ仕事レベルとなるとですが。

私などは今は絵を描く仕事などしてるが、そもそもが医者になりたかったとか生物学やりたかったとか思っていたのに数学が数字という形而上的記号に弱く、英語はアルファベットという形而上の文字に弱い、極端な視覚言語人間であるためにすこぶる成績が悪く、これしか出来無かったんで、仕方なしに絵を描いている有り様で、絵を描く行為においても個性など考えたことはなく、己が伝えたいものはなんぞや?なことを絵画表現にしているというだけである。個性があるかどうかなど判らない。「あなたの絵だとすぐ判る」と言われる部分は、様式めいたものであり、そういう様式化すると自分でそれを壊している時があるが、結局、そういう結果「あなたの絵だと判ってしまう様式」になってしまう。それ自体は己の限界と表裏一体で、褒められた部分でもない。守りに入っているのを個性と言われても喜べずにいたりする。

そもそも個性とはなんだ?
それはそんなに重要なのか?「個性を求める」「個性を重視する」と言って実はなにかをごまかしているんじゃないか?そのごまかされているものはなんなんだ?なにかもっと大切なものがあるのにそれに直面しようとしないで逃げているんではないか?でもそれがよく判らない。そういうもやもや観だけが残る。「世界に一つだけの花」なるものに感じるもやもや感ってのはそんな感じ。
で、そいつが知りたい気がする今日この頃である。

皆さんが色々書かれているんですが。まだよく判らないです。

◆◆非処女とかネタに通じる?

世界に一つだけの花」思想で連想したんだけど、以下のエントリ読んで。

○消毒しましょ!
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20080625/p6
■人間をモノ扱いして新品を要求する図々しい卑劣漢と、自分に都合の良い妄想に浸るキモいオタク

処女萌えオタクの心理を解き明かしていたブログに対しキンモーーー!などと突っ込み入れているのが面白かったんですが。

まぁ男なら大抵、自分の所有欲を満足させてくれる、自分だけの彼女が欲しい。
(ホントかどうかは知らん。爆)
当然、創作物のヒロインにも、自分だけの彼女になってくれそうな属性が要求される。
それが「処女性」なのだろう。

違うわ、ド阿呆。所有欲を満足させてくれるだけでいいのなら非処女でもいいじゃねーか。「処女性」なんぞを重視するような鬼畜は新品がイイってだけで、女を人間として見てねーんだよ!! 何様なんだ馬鹿野郎。

突っ込み口調が面白い。
それはさておき、突っ込まれた文面の「自分だけの彼女になってくれそうな属性が要求される。それが「処女性」なのだろう。」はまさに「世界に一つだけの花」心理に親和性がある気がするぞ。「自分だけを見て」的なる心理と、「たった一つの個性を認識してしてして」心理。
おたくさんと処女についての分析について妥当かどうかは判んないんで、まぁそれについてはなんとも言えませんが。

ところで我ギョウカイなどは、ヴェルジナマリアな直訳、処女マリアがおる。処女マリアは聖であるがゆえに処女マリアである。ほんとは無原罪なる意味合いがあるので、処女膜ありかどうかなどは関係ないんだが額面通り受け止めてしまうと処女であるがゆえに聖女な発想に繋がってしまうんでややこしいです。現に世の殿方、特にクリスチャン系のガチガチな人々は婚前交渉は罪だすとかいうし、子供を目的としない性交は罪深い扱いになるので自ずと処女=聖という連想に行く。しかしその教義をもつカトリック圏で処女を大切にしてるかどうかというと、それらの国々はほとんどラテン系で、あの通りである。日本人のほうがよっぽど慎み深い感じ。どこが聖処女萌え宗教圏だ?なぐらい女性達は成熟しまくったお色気むんむんで男はそれにやに下がってるイメージである。
なんだこのギャップは???
ただまぁイメージと実態の差はあって、意外とイタリア人はあの女好きな印象は口先君でイザことに臨むと実はシャイだとか、一人の女にめろめろになるとわき目もふれないとか、男女ともに独占欲が強くてとにかく大変だとは聞く。

◆◆追記

威勢のいいブロガーAntiSepticさんがトラバ下さった。読んでください。
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20080708/p1

処女なんちゃらという備忘部分に関してはおっしゃる通りか。
個性問題に関しては「もっと突っ込んで考えろゴルァ。」ということです。
うーん。精進してみます。
空気読め社会という問題もあるよな。色々広がりそうです。これに関して・・・
○地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080707/1215360447
■この花は、まことの花にはあらず@風姿花伝

・・を今、消化中。続きもあります。風姿花伝とついたタイトル読んでください。