『わたしの名は紅』オルハン・バムク オスマントルコ細密絵画世界

いやはや、やっと読破した。この本↓

わたしの名は「紅」

わたしの名は「紅」

藤原書店である。高いので有名な藤原書店である。ブローデルの『地中海』を買いたくても買えないよとみんなを泣かせた藤原書店である。アナールな人々の本が高くて手が出せない藤原書店である。それが小説を出していたというので、まぁ本屋でめずらしーとか手に取った。藤原書店としてはそれなりな小説値段であるんで買えるではないかというので、のちにネットでぽちっとなと買った。で、だらだらだらと読んでいた。

で、間に西蔵やら佐々木譲やら沖縄ナツコやら読んでいたんで余計にだらけてたんだがやっと読破。んでネトに繋いでアンテナ見たら、読書参考にしている松岡正剛さんも読んでたらしく、本日書評がアップされていた。なんという偶然というか、「どくしょかんそう文をかこうとおもったけど、とってもえらいおじさんがかいているので、それをよんでください。」・・・な気分。
松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
■第千二百三十四夜 オルハン・パムク わたしの名は紅

まぁ著者や時代背景の詳しいことは松岡氏にお任せとして、トルコの小説って点でかなりレア。イスラム文学というのはなかなか訳されてないのが多いんで、ノーベル賞なんか貰っちゃったこげな作家のは読みたいもんです。なのでこの作家の『雪』も読みたいが、やはり己の職業にほど近いシロモノがテーマとなっているこれを先に読みたいと、読んだわけです。

オスマントルコの時代の細密画家が主人公というか主人公は複数いるんで、細密画そのものが主人公といっても過言ではない。とにかくスルタンに献上したりする本の挿し絵画家達が出てくる。そいつわわたくしの仕事の大先輩ですよ。その当時の挿し絵の事細かな説明。著者がかつて美術を目指したことがあるという経験が、この小説には存分に反映している。

この著書の構造は、各章に語り手がいること。その語り手は複数いて、この話に関わる細密画家達やプロデューサー的な親父、その娘、娘の元夫の弟、取り持ちばばぁ、それに加えて、犬やら絵に描かれた樹木やら、まぁ色々な人物?が物語を語っていく。故に読者の視点はそのつど移動していく。その移動する感覚は、一点透視ではないパースペクティブを持つ為に、物語で語られる、光学的な洗礼を受けた西洋絵画、つまりヴェネツィアの絵画とは異なる、イスラムの伝統的な絵画技法を連想させる構造となっている。時間も空間も自在な、つまり読者を固定してしまう西洋の絵画とは異なる世界である、イスラム細密画の世界を言語化した作品であるとは言える。

西洋の絵画は透視図法の発見とともに、読者の目線を固定させてしまった。ルネッサンスは人間のあるがままの発露であったのだが、何故か絵画世界においては読者を檻に閉じこめるような関係性を築いたともいえる。その辺りは岡田温司がなんかこんな本で指摘していた記憶があります。

ミメーシスを超えて―美術史の無意識を問う

ミメーシスを超えて―美術史の無意識を問う

これね。昔の記憶だから間違っていたら済みません。

イスラム偶像崇拝禁止なんてやっていて、人物画を描くなんてもっての他みたいな、そんな印象がある。近い記憶ではあのムハンマド肖像画の問題があった。イスラムの寺院のほとんどは幾何形態の装飾や植物文様などで彩られてはいるが、具象物、それも人物像というのはほとんど見当たらない。その代わりにコーランの一節などを記すようなカリグラフィーの装飾美術が発展している。しかしオスマントルコの時代の写本なんか見てるとこれが豪華絢爛な、中国風の様式も混じったような、あるいはインドの細密画にも通じるような、美麗な物語絵が大量にある。流石にムハンマドの顔は直接に描かれた物は少ないが、代わりにベールを被っていたりする。この時代の細密画のあらゆる蘊蓄が、色々な人物を通して語られていくので、イスラム絵画にちょいと詳しくなりますよ状態。まぁ残念ながら日本ではなかなかイスラム絵画に出会うチャンスが少ないので、どんなものか想像するしかないのではあるが。

しかしルネッサンス的な透視図法、光学的な視点、あるいは明暗法という美術世界をもたないというと、東方教会世界、ビザンツのイコンがまさにそれで、イスラムではなく正教会も「伝統」を継承することにずっと腐心してきた。イコンを巡る決まり事は荘厳であり、神学的な深い裏付けを必要とする。故にイコンの絵画は延々と同じ型を量産し続けることにもなるが、しかし時に天才的な表現者が登場し、伝統継承という決まりの中でもそれと判ってしまうほどの作品を残している。アンドレイ・ルブリョフなどがその典型だろう。
また、この物語の細密が形が語る技法、様式という問題は、イスラム、もしくは東方教会世界のみならず、西方のキリスト教絵画の歴史の中で語られてきたものであり、神秘が継承される為の表現としての視覚芸術は個人の思想の発露ではなく教会共同体というものとの一致、ミサ典礼との一致、ということに向かうのが本筋だと、まぁベネディクト16世であるところのラッツィンガーもその著作で書いていました。

典礼の精神 (現代カトリック思想叢書 (21))

典礼の精神 (現代カトリック思想叢書 (21))

これね↑。うちの師匠が訳したんだな。師匠は内容理解してるのだろうかと思ったら、半分ぐらいしか判ってないかもですとか正直に吐露してましたよ。その点、ラッツィはすごいね。

閑話休題
物語はミステリー仕立になっている。昨日書評書いた『警官の血』もミステリーだけどね、あれは親子三代世相記が主眼だったみたいに、これも細密画というものを通じた、当時の人々の東と西の分明の衝突という物を書き出してるのだという辺りでミステリーはまぁ添え物というか。松岡氏も指摘しているが、あれだ。『薔薇の名前』だ。蘊蓄中世美学小説。それのイスラム版。

丁度ヴェネツィアと交易などをしていた時代でもあり、ヴェネチア絵画に触れる機会があった画家。コーランの教えを忠実に守ろうとする画家の確執。伝統と新規なるもの。東の文明と西の文明の出会いにおける戸惑い。という辺りは現代のイスラムが置かれた状況をこの物語を通じてナニやら描きたかったのだろうと、そういうことらしいが、現代のイスラムの、イスラム世界の側に身を置いてみたことがないのでそれがどういう感覚であるのかはわたしには判らない。ただ原理主義的な攻撃的集団というのがちらりちらりと物語の背後に登場している。

この辺りのイスラム原理主義者の問題は『雪』のほうでより顕著だろうとは思う。次はこれを[あとで買う]ボタンにポチっとな。ですな。

雪

ま。『雪』はいずれ。『紅』は、現代の細密画家としては大変お勉強になりました。登場人物の細密画家さん達が大変に真面目なので、わが人生を反省しました。



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で、本日のこれ↓
一日一チベットリンク運動/Eyes on Tibet

こんな本が書棚にあったんで再読中。昔読んだけどかなり忘れてるなぁ。
バルドトドルというのがどういうシロモノか判ったと当時思ったぐらい。