『自分探しが止まらない』速水健朗 戦後若者の志向性カタログ本

羽田で飛行機乗る時はいつも山下書店に行くんだが、買いたい本が上下巻の分厚い単行本とかしか無かったんで、そげな本を提げて歩くのはやだし、眠いけど眠れない頭脳に相応しい、肩のこらない新書でも読むか。などと新書コーナーにいった。あんまり読みたいのがない。
が、この一冊はどっかのぶろぐでちょい取り上げていたのを読んでたのに加え、『自分探し』という虫酸がはうほど嫌いな言葉で若者世相を抽出したとかなんとかで、ま、読んでみよかなとか。買ってしまった。
素早く読めた。時間が余ったので、更に再読しかけたトマス・ハリスレッド・ドラゴン』を読み終えてしまい、しょーがないので毛布被って眠ったです。沖縄便って時間持て余すよ。
つーわけで、さくさくどんどん読めるこの本↓の書評。

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

ま、読みやすい文章であるが、俯瞰して「自分探し」というキーワードで若者世相をぶった切っておるだけの本である・・・・というと身もふたもないけど。まぁ、なんとなく「ああ、ああ、そういうのあったねぇ」とか「それそれ私もむかついてたんス」みたいな、60年代くらいから現代までのあらゆる「わたくし的に気に入らなかった」カルチャーの羅列って辺りで、娯楽的に読んだ。読後、世の中に対し、たいへん意地悪な気分になった。
ヒッピーも「俺達の旅」も、海外留学するOLも、貧乏臭いバックパッカーも、ニューエイジも、自己啓発も、沖縄なめんなよ高橋歩池間島も、「イラク三馬鹿」と名付けられたあの人々の典型的行動パターンも、相田みつをとやらも、どの時代にも存在する「自分探し」的カルチャーは嫌いであった。それらの嫌いなモノ総合カタログ本。

つっても、ここで描かれている若者心理に、ではこのわたくし自分は当てはまらんか?というとそうではなく、絵なんか描いてるのはそれの総本山だし、しかもシューキョーの話なんかするし、田舎暮らしなんぞしてるし、自分自身がまるで「自分探し」キーワードで描かれている人間の典型的ケースの総合デパートだぞ。をい。

もっとも、この著者、自分探しを先進国の文明の申し子的、現代の病理的に書いとるが、出家とか修道会に入っちゃうのってそれの典型だったんじゃないか?中世からみんな「自分探し」しとると思うのです。聖フランシスコは裕福な商人の家に生まれたんだが、騎士になりたくなったり、貧乏生活してみたり、なんかまぁ対象が神とはいえ、つまり「神探し」にかこつけた「自分探し」と言えなくもないわな。カトリックのカルチャーは自分探し的な行為に充満ちとるよ。現代では修道院入って来るのがそういう理由が多かったりするようで、(このギョーカイが宗教なだけに)目的として神をみていないと概ね挫折するのではあるが、行為的にはまったく現代の若者の行動の典型と言える。

ただ、まぁ環境によって変えられるってことはありえないといいますか、例えば、「自分探し」行動の典型的な一つ「自己表現」行為であるところの「絵」なんぞ描いとる私は本当は、医者になったり生物学者になったりしたかったんだが、数学と英語が赤点だったので、そもそも普通の大学など受けられず美術ガッコに行くしかなかったとか、島暮らしした発端の理由なんぞは、絵が場所塞ぎなんで広い場所が欲しかっただけなのだが、島暮らししたからといって自分が変わるわけでもなく浜田山に住んでる時も横浜住んでる時もたいして行動パターンに変わりない(よーするに引き篭もりの怠けもの)が、環境的不自由さゆえに慣れないといけないことがあるので、そこんトコの意識を変えざるを得ないというだけで、変えたいと思って変えるものではなかったりするよ。

にしても、なんで「自分」なのかな。
「自分」ってのは飽きるほど「自分」なんで、もっと外部的ななにかを探したいというか「自分」よりも「他者」が面白い*1と思ってしまうんだが、それも裏を返すと自分探し的な行為なのかな?
実は「自分探し」というキーワードはなんでも説明がついてしまうおそろしいツールだったりして。

*1:「自分」よりも「他者」が面白い:自分が他者に承認されるより、自分が他者を承認するというか、他者のなにかを見つけるのが面白いという心理