『ハン二バル・ライジング』トマス・ハリス どうした?トマス?

那覇藤原新也を購入したが、読んじゃったらあとどうするか?藤原新也の本は一晩で読めそうだったんで、ホテルで眠れぬ夜に読み終っちゃったら、膨大な時間を持て余しそうで嫌だ。という危機感から、トマス・ハリスのこれも買いましたよ。

ハンニバル・ライジング 上巻 (新潮文庫)

ハンニバル・ライジング 上巻 (新潮文庫)

ハンニバル・ライジング 下巻 (新潮文庫)

ハンニバル・ライジング 下巻 (新潮文庫)

バルテュスという画家がいる。20世紀初頭に生まれ、21世紀初頭に死んだポーランド貴族の血を引く孤高の画家である。20世紀を席巻したあらゆる芸術運動から距離を置き、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカに魅了され、人間、それも少女を描き続けた。それ故にどこか変態的な少女趣味な画家だと誤解されているが、彼自身は精神分析したがる馬鹿モノが勝手に言ってることだと取り合わなかったらしい。シュールレアリズムの分野に入れられていることもあるが、彼はそれは不本意極まりなく、あんなのは凡庸な運動で、貧困なゲームだ。などと罵倒している。ほんとに近代、現代芸術がお嫌いだったらしいです。ヴィリエ・ド・リラダンを思い出すようなお人である。
このバルテュス。兄はサド研究で有名なクロソウスキーで『ロベルトは今夜』の作者であり、バタイユなどと交流していた有名人。更に、バルチュスの奥さんは日本人画家である。着物を着た晩年の写真も残っている。勝新太郎のファンだったそうだ。

そういうバルチュスモチーフがちりばめられたのがこの『ハンニバル・ライジング』なわけだが、稀代の殺人鬼人食いハンニバル・レクター博士の半生をバルチュスをモデルとした叔父夫婦に絡ませて書いたはいいが、どうも失敗した模様である。トマス・ハリスの興味は異常な精神を持つ怪物としてのレクター博士より、日本の伝統美に興味が移ってしまったようで。どうしたトマス・ハリス
とにかく随所に和歌が出て来る、源氏物語オタになってしまったかのように引用されてくる。なぜか与謝野晶子の短歌まで登場するし、紫婦人は伊達政宗の末裔だし、日本人にとっては多少違和感がある設定で、まぁアメリカンな人々が受ける印象とは違ったものを読み込んでしまうので、日本人にとっては辛い設定かもしれない。ハンニバル・レクターという人物がリトアニア貴族の末裔で、伝統と美学を愛し、凡庸な大衆と一線を引く価値観の持ち主であるがゆえに怪物的だったというのは判るんだが・・・。それはバルテュスの感性にも通じる。しかしその怪物を説明するに、戦争の犠牲、両親とそしてなにより妹の死の光景というトラウマと、それによって導き出される復讐心ってのは凡庸過ぎやしないか??これじゃ浦沢直樹の『MONSTER』の方が面白いよ。あの戦争と幼児期のトラウマという設定も似てるし。というかほとんど重なるんですけど。そしてヨハンのほうがなお怪物的だ。『羊達の沈黙』で見せたあのすざまじい怪物レクター博士が全然恐くない。
トマス先生はちゃんとレクター博士に集中してください。バルテュスの美学はいいから。
しかし、トマス・ハリスは以前も『レッド・ドラゴン』でウィリアム・ブレイクを扱っていたし『ハンニバル』は美の都フィレンツェだしで、どーも美術オタクらしいですね。前作まではそのモチーフがそこはかとなくゴシック・ロマンになっていた。ブレイクを持ち出すってのはかなりいい趣味じゃないかと感心していたんだが、今回はバルテュスに加え日本美ですか。日本に無くなった日本美・・・。大衆文化、それもアメリカ的なノウハウから得た大衆文化に席巻されて消え去りかけている日本の美。
西洋な人々の典型的な思考ではあるなぁ。ことにアメリカ人のそれは伝統・歴史コンプレックスから来るのだろうけど、まぁそれはそれとして優れた研究家とか、芸術家などを産んだりもしてきたわけだが、どうも最近その方向性がとみに劣化しつつある気がする。アメリカの小説界そのものも劣化してるんではあるまいか?とトマス・ハリスの新作読んで心配になった。ディスカバリーチェンネルとヒストリーチャンネルのせいか?