『国家の罠』佐藤優 ポピュリズムの時代は大変なんだな

rice_showerさんに勧められた『国家の罠』をついにゲト。読んだ。面白かった。
なので友人達にも薦めた。オヤジな友人は一様に興味を示した。しみじみオヤジ本だな。オヤジ達はかような権謀術数なお話が大好きである。

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

佐藤優は読ませる文筆家である。前回読んだ『自壊する帝国』における人物描写やロシアという文化社会の記述がカタストロフィへと向かう帝国の時系列の中で描かれているという手法がなかなかに面白かったが、こちらはそれに比するとこなれてはいないがそれでも読ませるなぁと。
ミステリ的な手法というか、基本となる情報を先ず散りばめ、それから事件(逮捕)が起きる。読者は「何故?」「何が起きたのか?」と読み進めながら疑問の中にある。そしてその状況分析という一応の解明があり、顛末の光景が書かれる。起承転結がはっきりとした構成で、正直退屈かもしれない〜と思うネタがサスペンス的に読めるという仕掛け。うーん、ポピュリズムな時代にまったく合致した手法で来たか。おかげで政治経済疎い末端な大衆な私でも面白かった。なるほど、こいつは馬鹿大衆の為の啓蒙書か!!よう学ばせてもろたわい。と思いましたです。

宗男ちゃん事件についてはわたくしはよく知らない。「いつもの政治家の足引っ張り提訴かぁ。この先生は何をしくじったんだ?」ぐらいに思ってスルーしていた。引っかかったのは「ムネオハウス」でハウスミュージックなフラッシュ作っていた2ちゃんねるの職人さんに感心した程度である。宗男さんはどうもネラーに人気があるらしい。などと漠然と思っていた程度である。とほほだ。外務省絡みだということすら知らなかった大馬鹿である。

外務省に関しては田中真紀子が引っ掻き回している光景の方が印象深かった。とにかく外務省はぁゃιぃ。昔っからぁゃιぃとこだ。なにしてるかよく解らん。我が大伯父も戦前外務省勤務であったので、英国やエジプトやアフガニスタンでなにやら活動していたようだが、この本を読んだあとでは、激しくぁゃιぃ気がする。爺様が生きていたときに大日本帝国が英国や中東やアフガニスタンでやっていたすこぶるぁゃιぃであろう活動について聞いとけばよかった。面白い小説のネタが溜まったかもしれないっす。

かようにぁゃιぃ世界、つまり「国家」というある種の共同幻想に基づいた共同体と、それを存続せしめる人々のうごめく世界の、魑魅魍魎ぶりというか、しかしその魑魅達がそれぞれにこれまた国体に忠実でもあり、或いは所属する共同体に忠実であり、守るべきものがそれぞれに違う中で起きる摩擦が生じさせる中で起きた事件というか。
ところで、国家を形成する集団の実体があってないような不可思議な世界に於いて、その中にいる人々が実は激しく人間的な面を見せるということに、どこか安堵感を感じはした。それが、著者がもっとも信頼する鈴木宗男のカリスマ性だけではなく、対立する検察官と、人としての情が通う光景ということだけではなく、例えば、起訴されていく過程で見え隠れする事情の、弱さゆえの保身、あるいは卑怯な裏切り等々、ナニか根底にある事情がすこぶる人間的なものの積み重ねであるということ。この事件の背後にあるのは、ロシアスクールに集った人々ー佐藤が形成した、信頼と尊敬という人間関係ーとは非対称ではありながらも、人間のべたな心情に根ざしている。
ゆえに方向をあやまてば、トンでもな方向に行きはするであろうが、しかしけして解決出来ぬものではないのだという希望もそこにある。佐藤はおそらくどこかでそういう「人間」というものを信じているのだろう。諦めない不屈さはそこに起因するのではないか?

国策捜査」というのが政治の潮流に生じる節目、変容の道標であるというのは成程。こいつは生贄である。新自由主義へと転じていこうとする、ナショナリズムへと向かう世論が作り出すポピュリズムの政治の時代への移行期に奉げられた前時代の生贄が鈴木宗男だと説明する。

まぁその辺りの分析はよく解らないし、他にも意見があるかもしれない。しかし確かに鈴木宗男は地方評誘導型の政治の象徴ではあるし、ロシア、中国と米国との均衡ではなく、よりアメリカ依存へとシフトしていったように見える小泉政権の時代の差を考えるとそうも言えるが。

なんにせよ世論が時代を作り出す時代というのは、なんか恐ろしいというか、この手のインテリジェンス世界の専門性が認められないということと同じく、知の専門性への侮蔑というか、知識を尊重しない風潮、素人のはびこる世界というかとにかくあらゆるものがなんとなくフラットな時代ってのは、なんだかあんまり幸せじゃない。コンビニの品揃えとか・・・どこでも同じ商品とか・・チェーン店の店ばっかしな田舎とか。幸せじゃないよ・・って本書と関係ない方向の愚痴になってしまったが、なんか関係もしている気ガス。
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ところで佐藤はキリスト者である。プロテスタントの信者さんで、神学を学んだ専門家でもある。彼のそのような信仰が彼のスタンスに大きく影響しているかというと、まぁそうだろうなと。但し、キリスト教だから彼のようにどのような境遇であっても個として自立出来た。という意味ではないが、彼の場合はよりどころがキリスト教であっただろうとは思う。現世的なナニかを求めない価値観を持っているが故に捨て身でいられた。けして偽善的な生き様を貫いているわけではない。ここんとこよくカンチガイされるんだが、クリスチャンは単に善を行う存在ではない。神に向かう生き様である。おそらく諜報活動などはかなりの汚れ仕事であるし、人としてどうよ?な判断すら下さねばならない。しかし「国家」に忠誠を誓うと決めたものはけして己のエゴに生きているわけではない。
ところで、神というのは時々まったく理不尽だったりするんで、かなり酷い。忠誠を誓うものにも相当酷い目にあわせる。ヨブ記なんか酷い。旧約全編がとにかく酷い。新約のイエスも見棄てられた。しかも磔刑にするなんてまぁ酷い罠。救ってやれよと思うが救わない。耳も貸さない。
「国家」も同様であったりする。しかしそこで尚、「信じる」とする佐藤の心理は、まさにその理不尽な神に祈る旧約の民と心を同じくしていたであろうとは想像できる。
佐藤は拘置所で聖書を熟読していた、それも旧約を。それは痛いほどわかる気がする。

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ところで『国家の罠』ですが、国家が意思をもって変容していこうとするとき、かような象徴的な事件としての「国策捜査」が起き、社会的に立場を奪われる人が出るって光景はかなりホラーもんですが、まぁこの書自体が当事者からの言であり、特定の立場にコミットすることを明言している人物のもの故に、ある種のバイアスはあるとは思います。というのも国家というのは目的の為には非情にもなる性格があるわけで、もっとも佐藤自身それは承知であるとは思いますし。
とはいえ、時代の流れの変容にこのような事件があった。このような経緯でこうなったということは事実でもあり、その説明としての宗男事件の分析を、当事者の視点から見るならばこうなる的なお話はまぁ面白い。
鈴木宗男が従来型の地方誘導型政治を行っていた人物であり、彼がソ連とパイプを持っていたというのもなかなか面白いです。田中角栄の中国との関係みたいな。どっちも社会主義国家であり、そしてこれらの政治家が「社会党」ではなく「自民党」所属という辺りも。
これは以前友人と話していたのだけど、「小泉以前の自民というか伝統的に自民党というのは、資本主義ではなく社会主義だよね」という話。例えば、私自身親父の仕事(悪名高い道路公団から悪名高い土木ゼネコンに移った)を傍で見ていて、いかに多くの人に仕事を作るのか?多くの大衆に公平に再分配するのか?という文脈で、例えば談合的なるものがあったり、計画が考えられたりしていたわけで。(そういえば土木事業の奨励や充実はこれら社会主義国家の十八番だしな・・・)故に父から学んだ「仕事」とは「個人へ還元されるもの」ではなく、あくまでも「社会に還元される利益」と理解されていた。「仕事を通じて自分探し」という発想がそもそもなかった。あくまでも社会への奉仕であった。この辺りのスタンスは佐藤の採っていたスタンスに近いものがある。公団からゼネコンに移った事情なども、組織の硬直から出た的な性格があったようだ。父は多くを語らないが、母から聞く話では、まぁ男の嫉妬はコワイ的な世界というか・・・。どうも官公庁ってのはそういう性格があるらしい。ってのは様々に断片的に聞く話でもあった。

わたくしが永らく保守だったのは、この自民政治の再分配的発想というか、よーするに大衆の飯を心配するという実際的な部分に於いてで、まぁ正直、自民的な政治なんぞ泥臭くて、しかもあまり長期的視座に立っていない計画が多いうえに、散人先生が常に主張するような依存症を作りまくるやり方はどうよ?とは思うものの、とりあえず、比較として大衆のことを心配している党だという印象は永らくあった。例えば、鈴木的な地方誘導の発想。税金の使い道としては他県にもって行かれるだけな損しまくっている横浜に住んでいても、損だと考えたことはない。横浜に住んでいてその手の行政の面で別に困ることはなかったからだが、地方ではほんとに皆が心底困っているのだということを目の当たりに見ている今では、やはり「再分配」というのはある程度必要なんではとは思うし。
その国民生活の充実という点で実効性だけはあるというか。リアリストだという印象はかつての自民にはあったとは思う。勿論、その方法論や過程で起きる不祥事等に非難されるべき要素は多いとも思うが。
自分自身、多少やり方が汚くても、結果として幸福になるものが多いとか、皆がある程度、公平配分されるんならいいじゃん。というまぁいいかげんさを持ち合わせている。汚さを引き受ける実行者はその批判を甘んじて受ける覚悟があるかどうか?ということは問われてくると思うが。
それを引き受ける覚悟があったのが、佐藤であり、鈴木だったということかもしれない。田中角栄なんかもそれか。政治とは地獄に落ちる覚悟で望まないといけない仕事なんだと改めて思う。過酷過ぎるんで私のようなヘタレは近づかないほうが身の為だよ。

それが転換したのが小泉首相の時代で、新自由主義的なるものに個人的にはついていけないなぁとは思っていたけど、しかし支持する人も多いなら、時代がそれを要求しているならそれはなんだろうか?とは思っておりました。しかし今のところその反動が起きてる気もします。(それで安倍氏が貧乏くじ引いたかも)
ただポピュリズム的なものはより力を増したとは思う。そっちのほうが一番怖い。