『私家版・ユダヤ文化論』昨日の続き

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070927/1190913098
・・・・の続きね。

先日、アメリカから帰ってきた友人に会った。
締め切り地獄に苦しむ私を尻目に「ルート66を車で踏破するぞ」と出かけていったデザイナーな友人である。
彼はアメリカがすごく好きというわけでもなく、寧ろ「アメリカ人」は嫌いだったらしい。なんで出かけたのかというとなんとなく行きたくなっただけなんだそうだが、しかし大陸横断の旅をしてみて、その認識を新たにしたといっていた。
ルート66が通るコースはバイブルベルトと呼ばれる地帯を通るそうで、所謂保守的なネオコン白人が住んでいそうな所である。なんか黄色人種なんかいじめられそうで怖そうなんだが、しかし彼が出会った、バイブルベルトの田舎もんなアメリカ人は、すこぶる親切で、交通ルールをきちんと守り、秩序だった日常を過ごす人々で、大変に素朴であったそうだ。交通ルールに限って言うならば、日本など無法地帯としか思えないほど激しく守っているらしい。「誰かが見てないからいいや。」などという感覚もない。決まったルールはきちんと守る人々である。以前出かけたラテンアメリカの無秩序、身勝手っぷりとは大違いだそうで。
秩序ある彼らの世界と、その安定した秩序から生まれる余裕からか旅人に親切な「アメリカ人」はおよそ保守的なネオコンからイメージされる排他的なイメージとは程遠い。こんなクソど田舎に行ったら、トウモロコシ畑で白いとんがり頭巾をかぶった輩に追い回され、火炙りになってしまいそうな勢いでイエローモンキーに敵意をむき出しにするとか、立ち寄った街道沿いのレストランで店主や客達にじろりと睨まれ、飯を注文しても聞こえない振りをするような陰湿いじめされるとか、そんな感じは全然なかったようだよ。スティーブン・キングの小説ばかり読んでるとそんなイメージが膨らんでアメリカの田舎は行きたくなくなるけどね。

もっとも、旅人という一過性の存在と、そこに住んで判る排他性は別物ではあるとは思うゆえに、本質的な問題は腰をすえて観察しないと判らないとは思うのだけど、ひげに坊主頭という見るからに胡散臭い我が友人にも、大変に親切だったというから、少なくとも通りすがりの外部者を排他しないオープンさはあるようだ。

あと激しく健康ヒステリーな、禁煙ファシストな人々というイメージも田舎には全然ないらしい。そもそも、すげーでぶが多いらしい。喫煙云々以前にメタボリが深刻なようで。
あと、レストランに酒を置いてない所は多いらしい。

とにかく行って見ないことには判らないことが多かったと友人は語っていた。彼が以前持っていた「アメリカ人」に対する、傲慢で鼻持ちならない傍若無人、しかも原理主義的なイメージは、この旅で変容したようである。

我々は「ユダヤ人」と同様に「アメリカ人」にも幻想のイメージを押し付けているかもしれないという好例ではあるなぁ、などと彼の話を聞きつつ考えていた。

見たことがないもの、或いは自分自身が理解不能なもの、想像するのが困難なもの、或いはなにかイメージづくろうにも実存の材料が少なすぎるもの、そういうものに対し、なにか固定したイメージを付けることによって、人は納得、もしくは安心しようとする。そもそも「銘辞する」という行為そのものが漠としたものを固定化させる作業ではあるのだが、銘辞されることで物事は明快になる反面、固定化されてしまう。曖昧領域がなくなってしまうのだ。
「言葉」というものにはそのような欠点があるようには思える。
それは例えばキリスト教が、アレゴリーとして表現されてきた中世以前の信仰世界と、印刷術が発達して言語化したのちの信仰の様態の変容にも通じるかもしれないな。などと思った次第。

・・・ああっ!また最後は抹香臭いネタに。
済みません。