聖母子像を描いているわけだが

主任司祭に「描け」と命じられた聖母子像を描いている。それと頼まれているもう一個と平行で、二つの母子像を雑誌社の仕事の合間に描いているんだが。およそ描きつくされた聖母子像。自分なりの聖なる母子のイメージってのを、内面から外部へと提示しなきゃならないんだけど、紆余曲折しています。

展覧会の作品と違い、これらは聖堂内に目的を持ったものとして存在するわけで、どこに置かれどのように用いられ誰が見るか、誰がそれとどのように相対するのか?が一層重さとなってのしかかるんである。一つの共同体は島の田舎の教会で、そこにいる母子は、フィリピーネが多い。フィリピンの母ちゃんは逞しくも多数の子を産む。だから聖母はたくましい女性として現わしたい。遙か異国の島で大地に足を踏みしめ、農家の母となるべく来た彼女らに敬意を、そしてその子達には彼女達を思い起こすようなそんな母像・・と思いつつ、まっすぐにこちらを見る女性を描いてみたのだが、どーも厳しいというか、その腕に抱く子との関係性よりも、見るものとの関係性の方が勝り過ぎ、これは自主的に没とした。だって、抱かれているのは単なるお子様ってわけでもないわけで。
主任司祭は子を慈しむ聖母をどーも望んでいるようなので、レオナルドの聖母子、或いはピカソの母子の像を思い出し、子と母の関係性を描いてみることにしたよ。子は母を祝福し、母は子を慈しむというようなそんなの、注文者がなんせレデンプトール会ですから、絶えざる御助けの聖母な、そんな聖母の側面も採り入れないといけないような。それを表情と手だけで描き現わすんだが・・・・私がそもそも聖なる人生も歩んでないし、御助けを与えるよりも与えて貰ってるほうが多い人間なんで、与える側の顔を果たして描けるのか?いささか疑問であるよ。
で、もう一つの方は遠い国へと送るので、自然な木の木目を活かした作品にしてみようと思っているんだが、丁度節が母子の顔のところに来るような配置にしたはいいが、それではモチーフが小さくなり過ぎなのと、木目が割れる可能性があるんで、構図を変えることにした。こっちはまだヴィジョンが固まってない。前のをある程度描いてからどうするか決めようですよ。

そういうのをだらだらだらと最近やっているんだが、自分にとってのマリアはやはり逞しい母ちゃんであって欲しいんだな。などと発見した今日この頃。