『故郷』チェーザレ・パヴェーゼ ネオリアリズモとファシズム

文庫本が湿気でぶよぶよしたあいかわらずの梅雨の島。今度は『故郷』を読了。
先日の『美しい夏』とは違った印象の作品だったな。

故郷 (岩波文庫)

故郷 (岩波文庫)

この作品はネオリアリズモの原点として、ヴィットリーニシチリアでの会話』 と並び称される。それ以外で有名なリアリズモってぇと、『マラヴォリヤ家の人々』ジョバンニ・ベルガの作品があるがこれは更に時代が前で、イタリア国家統一独立運動、つまりリソルジメントの時代に書かれている。国家統一期に、シシリア方言バリバリの小説。都市国家として、地方地方が固有に存在してきた歴史を持つ、南ヨーロッパのこの半島において「イタリア」という統一された国家が生じるということは、それぞれにおいてどのようなものであったのか。イタリア統一とシシリア方言との関係を説明しとくと、イタリアが統一される前ってのは、イタリアはイタリアではなく、オーストリア支配下にあった。イタリアの民衆が立ち上がったきっかけはシシリアからだった。シシリアの反乱をきっかけに共和国主義者であるガリバルディというおっさんが立ち上がったのだな。


さて、パヴェーゼの時代、時はイベリア半島で、スペイン内戦が起き、フランコと人民戦線が対立し、フランコが勝利を収めた、あのスペイン戦争ののち、多くの知識人が南ヨーロッパの他の国へと流れていった。フランコバスクなどの自立意識の強い地方を文化的に封殺していく。バスク固有の言語、或いはカタルーニャ固有の言語は、奪われる。現代のスペインに行くとそれら地方固有の言語は生きていて堂々と用いられているが、フランコの時代はそうではなかった。
文筆するもの達にとって、それらの言論の固有性への弾圧は看破出来なかったのかもしれぬ。ムッソリーニ率いるファシスト党が台頭してきたイタリアで再びリアリズモが息を吹き返したのはそういう背景ゆえなのかもしれない。弾圧されていく大衆の「言葉」民衆の言葉としての、地方言語。というのは、これらロゴスの国ではどういう感覚なのか、どーも欧州文学史に疎いんでよく判んないんだけど。

パヴェーゼはこの小説をピエモンテ固有の言葉で書いたという。訳者の解説によるとそれらの訳にかなり苦労したようだ。ベルガの『マラヴォリヤ家の人々』の訳が大層読みづらかったことを覚えている。その訳文の変な言葉に振り回されて、どーにも途中で投げ出してしまった。パヴェーゼの訳者はそのあたりをなるべく押さえ気味にしてうまく訳そうとした所為か、ちょっと不思議表現なんかが散見してしるなど、ひっかかることはあるもののまぁ読みやすい仕上がりにはなっている。ただやはり地方固有の言語ということは重要な要素だろうから、訳文で読んでもパヴェーゼの目指したものは正直伝わるはずもないだろうが。

物語はトリノという都会育ちの主人公がムショ仲間のタリーノとともに出所し、タリーノの故郷の寒村へと連れていかれるところからはじまる。トリノという都市育ちの主人公ベルトはこの農村ではまさしく「たびんちゅ」であり、そのたびんちゅ的な外部的視点で農村の人々を見ている。タリーノをはじめとした農民のずるさ。隠し事の多く閉塞的な社会。理性より獣性がまさっているかのような状況。散人先生がもっとも嫌いそうな「農民」の肖像がそこにある。魯迅にとっての『阿Q』のごときタリーノは救いがたいトンでも男であり、その家族もなんとなく救いがたい。
同じ寒村ものというとシローネの『葡萄酒とパン』があるが、こちらにはそこはかとないユーモアと希望があったが、パヴェーゼにとってのこの農村は主人公と対立した位置にあり、どこか絶望の光景でもある。

リアリズモとして書かれたこの農村の意味はイタリアの近代の歴史のその大衆の有りようをよくは知らぬ私にとってどう位置づけていいかは判らない。散人先生が常におっしゃる「保守を支持する農村の民の現実はこれだ!」的なモノなのか、そのあたり農村とファシズム政権の関係なんかしらないと判らない。

そういう意味では感想的に保留が残るな。

マラヴォリヤ家の人びと

マラヴォリヤ家の人びと

ジョバンニ・ヴェルガ 1840-1922イタリア、リアリズモ文芸運動の代表作家。
これはかなり変な小説だったなぁ。おかげで読み切らなかったのは前述の通り。訳が問題なんだろうけど、あのイタリアのクソど田舎シシリアを表現しようとしていたわけで、慣れると面白くなったのかも。


葡萄酒とパン (現代イタリア小説クラシックス)

葡萄酒とパン (現代イタリア小説クラシックス)

こいつはなんだか好きな小説の一つ。