『ミノタウロス』佐藤亜紀

幼い頃、母はよく美術展につれて行ってくれた。西洋絵画の大家、ドラクロワパウル・クレーピカソセザンヌ、ルオー辺りはかすかに記憶に残っている。そのなかで特に印象深かったのがピカソのヴォラールコレクションの版画のシリーズである。ことにゲルニカのモチーフともなった「ミノタウロス」を巡る画は強烈な印象を与えた。
少女に手を引かれる盲た怪物。女を襲う怪物。傷つく怪物。ミノタウロスはよりグロテスクに描かれ、幼心に恐ろしかった。強姦シーンなどは子供にはナニが起きているかは判らぬが、とにかく狂気すら感じるようなおどろおどろした画像に畏れをなした。やがてピカソという人なりを知りその絵の意味を理解するにいたり、己の中に抱えた怒りと暴力と哀しみをかくも美しく描けるその天才に、素直に屈伏するしかなかった。

佐藤亜紀の新作『ミノタウロス』はもう数週間前に読み終えていた。なんじゃか、書評書こうと思いつつ。忙しかったりなんやらで落ち着かず書けなかったんでやっと書く。

ミノタウロス

ミノタウロス

いやぁ、一気呵成に読みましたよ。テンポがよかったので。その前に読んでたのがマルケスだったから余計に・・・・。

相変わらずのマチズモっぷりというか、成程、平野啓一郎とは対極だなと。改めて思う。平野がフランスの、静かな室内楽でもかかっていそうな夕暮れどきのサロンになんだかぽつんと置かれて囁いているような感じなら、佐藤のは戦場のカオスのどろどろとした泥濘の中でふてぶてしく煙草を吸っているようなそんな感じ。男女の役割が入れ替わっとるかのような印象ですな。まぁ、拳闘などを嗜み、葉巻を銜え、革ジャンでバイクにまたがっとるような方だというから、マッチョこのうえないのだろうけど。

今回の小説のモチーフは『天使』『雲雀』にかかれたモノが解体され再び構築され直したというような、どこかで共通する人間像が出て来る。東欧のあの湿気が微妙にありそうな重厚なゴシックともバロックともつかないような正教会的な重さのごとき空間で、何故だか無法者達が蠢いている。その無法者達は、小説に登場するドイツ人の変人撃墜王が読んでいる西部劇の人物達のごときであり、その無頼世界っぷりにジム・ジャームッシュの『デッドマン』を連想した。どうも脳裏に撃墜王とあの映画のイギー・ポップが重なったり、地主の親父がロバート・ミッチャムになったり、主人公がジョニー・デップになってしまって困った。小説では、インディアンの導き手はいない代わりに、壊れたドイツ人(イギー・ポップ)がいるって感じ。しかも、どちらも生きているがすでに死んでいるかのごとき状態。

友人が「佐藤亜紀は戦争を書くことが出来る希有な作家だ」と評していた。
それも地べたにはいつくばって見た視点での戦争。
物語は20世紀初頭のロシアが舞台だ。帝政ロシアの崩壊後の世界か。その辺り、俯瞰した視点では決して書かず、あくまでも地べたにいる人間の視点から書くものだから、状況を明解に把握出来ない。もうただカオスがあるのみ。無政府状態とも言える状況下で生き延びようとする元地主の息子である主人公が己の中に抱える「怪物」を解放して行く様と彼が会得したなんの役にも立たない教養とが微妙に入り交じり、とんでもない無法が、その彼の冴えた目を通じて表現されていく。フォルトーナ(運命の女神)によって翻弄される人々を観察する主人公の目は他者を冷たく突き放してはいるが、時折彼が目の前の出来事を評する時になんとも美しい修辞で説明するもんで、ただのべたべたの戦場物語ではない。いやはや、面白い表現で地べたの戦争を書くなぁと。こげなモチーフがかくのごとき美になるものかと、ちょいと感心したですよ。(未来派にも通じるかもしれん)

目茶苦茶カオスな戦場に翻弄される人々っていうと『石の花』坂口尚を思い出すんだが、あちらは「正義」或いは「希望」が書かれていた。佐藤のにはそんなものはない。イデオロギーも正義もない。未来もない。今があるだけ。ただ生きているだけの、点景のごとき人間達のいとも簡単に終る生。そういう意味では殺伐とした話ではあるんだが、上記のような、視点があるが故に、なにかが昇華されていく。

しかしまぁ、ピカソミノタウロスが悲しき怪物(神話のあの話も可哀想だけんどね)のように、この物語の男たちも悲しい。彼らを描く佐藤の視点は彼らに冷淡なように見えて、実は優しい。どうしようもなきその怪物的な人間本性を否定しないからなのかもしれない。

ただ、これ、読み手を選ぶね。微妙にひねくれた人間じゃないと愉しめないかもですよ。例えば英国人的なあの意地悪感とか持ち合わせていないと。