『百年の孤独』ガルシア・マルケス 熱帯のsaga

島は梅雨に入った。いよいよもって湿気がすごく、書籍もしっとりとして、パンに黴、衣料はつねに、ねとんとしている。そんな島の梅雨。ガルシア・マルケスを読み続けている。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

島に旅で来て、島が気に入り、ずっと滞在している方がいて、先日、島の「オカルトツアー」なるモノをしたとおっしゃっていた。島には沢山の聖域、霊場があり、この世ならざるモノがいると島の人はいうそうだ。「そういうの知っている?」と訊ねられ、うちの近くの墓場で子供たちが幽霊に遭った話などをしていた。そういえば島人のおじさんが「子供の頃におばーちゃんからあそこの木にはなんかいる。あそこの家にはなにかがいるなんて言われて育ったけど、子供が行っちゃいけない場所を脅すのに話していたんじゃないかなぁ?」とおっしゃっていたが、いや、ナニかいる。って感覚はそう言ってしまえば身もふたもないのだけど、しかし島にいると「ナニかいる」って感覚が自分の中に生じるなと、改めて思った。
日に日に表情を変える海の、その遙か向こうに常世がある感覚とか、ねっとりとした夜の闇に存在するなにかとか、繁った古木の存在感とか、そういうのに囲まれていると、唯物論的な次元ではないなにかそういう鋭い感覚が鋭敏になっていく。
だからおばぁがあの世の、この世ならざるモノを、存在してあるモノとして語る、幻想的な世界はすごく理解出来る。島尾ミホの『祭り裏』もそういう語りの物であった。

ガルシア・マルケスは『百年の孤独』を書くにあたって、彼の母が語る、一貫しているとか論理的とは言い難いような、仕掛けの複雑な、つまりなんとも高度な「語り」を念頭においたらしい。そしてその根底には祖父母の語る民話や伝承などが入り交じり、あの世とこの世が交錯しながら存在する日常世界が、とりわけなにか中心となるようなすごくドラマチックなことがあるような様にもならず、ただ淡々と一族の叙事詩が綴られているような、そんな物語が誕生した。

マコンドというとある街にある旧家の一族の物語であり、その一族の人々が生きて死んでいく光景を、あたかも屋敷がなんの情も交えず見つめて記しているような、そういう物語である。その視点は島と同化しながら島の人々の営みを書く島尾ミホの視点にも通じる。そこでの人々は生者と死者とが当たり前のように交流し生きている。いや生者が当然中心なのだが、家の中にはかつて死んだものがウロウロしているのが当たり前のように書かれていたりするので、ただの一族サーガ物ではない幻想文学的な不可思議世界になっている。

先日のエントリで別の本の訳語の「聖霊」が「精霊」になってるのには困ったもんだと書いたが、コロンビアという土地がどういうとこかはよく判らないんだが、熱帯固有の、どこか過剰さがその土壌にあるならば、わが島の風土にも通じる、それこそ「精霊」の気配に満ちたようなアニミズム的な風土があるのかもしれない。上記のような生者と死者世界の境界の曖昧さという空気はすごく判る。
(・・・・だから、マルケスは島で読む本と決めているんだけどね。)

コロンビアというと、エメラルドが採れるとことマフィアぐらいの知識しかなかったのだけど、一年前だか、島に遊びに来たコロンビア人ラウラと知り合いになり、彼女の日常になんとなく付合ってみて、マルケスが描く世界のあの妙な過剰さ、いやむしろ豊穰さといったほうが言いようななにかがコロンビアにはあるのだなとは思った。彼女の一族の住む広大な農場のヤギの話、一晩中うかれ騒ぐパーティの話、一族郎党こぞって日本に「突然」やって来た話。そういう計画性がないが人生を享受することにたけ、しかし地に足がついている彼女のその性格の源がなんなのかやっと判った気がする。

マルケスのこの物語がナンで名著で、プルーストと並んで「一度、読んどいたほうがいいと思うよ」本になっているのかよくわからんのだが。。。。というのもかなりマニアックな気がするからナンだけど、しかしホメロス的な系譜といいますか、百年という悠久の時の海の中に浮かぶ木の葉のような人生を、俯瞰した視点で描くというのは、読む側にとって気持がいいのは確かだ。

登場人物はそれぞれに極端だし、変だし、マジあり得ないと思うんだけど、しかしコロンビアのラウラを見ていてそういう人物が日常なのかもしれないと微妙に思った。
なんだかラウラに無性に会いたくなった。