久しぶりにネット世界

仕事上メール使用をしなきゃならんので久しぶりに昨日ぱそ立ち上げてみた。電話やらミクシメッセージやらメールやらで皆様にご心配おかけしておりましたので、生存報告を書いてみた。思ったより激痛は無くなっていたモノのまだ予断は許せんのでこわごわ打ってます。といっても打ちはじめるとこんなふうに長くなるくせがあるんで、ぱそつけるの恐かったんだけどね。笑)
で、半月ほど、文字通りの晴耕雨読の生活してました。
箸より重いモノを持てないというのは冗談で日常生活程度ならそれなりには出来るので、過度な庭仕事は避け、晴れた日は庭仕事、雨の日は読書。という毎日で、いったい今が何日かも判らなくなってましたですよ。唯一編集から来た連載のファックスが日にちを知らせるものくらいで。
そのおかげで、あの登場人物の名前がながったらしく、或いは同じ名前のが沢山登場して判らなくなる、とっても途中で嫌になるガルシア・マルケスも読破。『百年の孤独』なんてこんな呑気臭い日常がないと読む気しないよ。あれは、島尾ミホのコロンビア版みたいなもんだな。今は『コレラのうんたらかんたら〜』とかいうタイトルが長すぎて覚えられん本読んでるけど、訳文の「聖霊」が「精霊」になっているのはなんとかならんか?小説というのは「言葉」に敏感じゃないといかんだろ。「精霊」だとアニミズム的な世界が広がっていきなりコロンビアが奄美になって困る。ロザリオ繰りながらの「精霊」はないだろ。
新潮社はこのような訳語に無造作な全集を出して恥ずかしく無いのか?!!!!!
おおいに反省しろ!
・・・・などと、晴耕雨読の生活の中で心休まらん日常をしている日々であるよ。ま。もうすぐ聖霊降臨祭だしね。

というわけで、手が痛い以外はすこぶる元気なんで、皆様ご安心くださりませ。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

そのうちちゃんと書評書く。
コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

第二版では訳語を訂正しといてくださいです。宗教的な世界観への無知は恥ずかしいと思う。それによって小説の醸す背景が微妙に変容してしまう。いっそ坪内逍遥のシャイクスピアぐらいすごい訳(「アベ・マリア」を「南無阿弥陀仏」と訳し、「カプチン寺」と表記し、カトリックの坊主を「僧正」と書く)なら文学的意義もあるってもんだが。