『奇跡の大河』J・G・バラード 廃墟親父の熱帯幻想

トーマス・マンの『魔の山』の教養毒気に当てられて、口直しに家にすっころがっていた、バラードの『奇跡の大河』を読む。

奇跡の大河 (新潮文庫)

奇跡の大河 (新潮文庫)

バラードをはじめて読んだのは確か『時間都市』だったと思う。兄貴の大学の英語の教材だったらしい。兄はあまりこの手のSFを読まぬので珍しいな〜と思って借りて読んだ。こんな変なSFがあるということにいたく驚き、以来ファンになった。

バラードの描く世界は、鉱物的なシュールリアリズムといった印象。非常にビジュアル的であり、同時に結晶化していくようななんらかの世界を構築していくのが巧い。人と人との関係のドラマというよりはその世界観を創造することに興味がある。その世界は巨大な廃屋にも似て、バラードによって建設されるその人工的な空間に圧倒される。

そういう彼の世界観は映画にもなった『太陽の帝国』によってあきらかになる。第二次世界大戦の末期にバラードは上海にいた。上海という魔都の最期に少年期に立ち会っていたのだ。スピルバーグのお涙頂戴の演出で映画のほうはもとの作品を台無しにしているようでしょうもなかったが、『太陽の帝国』の全編を貫く、上海という街の西洋的なるものの果ての世界が崩壊していく断末魔のごとき光景と、アジア的な有機的なものが蝕んでいくあの終末的な空気は、彼の作品に受け継がれていった。

『奇跡の大河』はそのアジア的な、あるいはここでは「アフリカ」となるが、秩序ある西洋的な世界を、有機的なものがナニかを腐らせていく悪夢的な光景を再現したといえるかもしれない。

主人公の医師マロリーはアフリカはサハラの政情不安な地帯で灌漑工事に執りつかれ、日々を費やしていた。やがて彼は大河を掘り当てる。「マロリー河」と名づけられた河は全て押し流し彼の灌漑計画すらも台無しにしてしまうかのように思えた。マロリーは河の精とも思えるような少女の導きにしたがって河を遡り、河を殺す為に水源へ向かう。

この旅路の光景はまさに悪夢である。生まれたばかりのサハラ砂漠を流れるこの川の両岸は驚くほどの勢いで植物が育ち、あるいは澱みを作り出し、人々の集落を腐らせていく。本来水という恵みをもたらすであろうマロリー河は、人々の集落に恵みではなく疫病をもたらした。ここでは河は悪魔的な存在である。エンドレスで戦乱と不安と飢餓に苦しむ現代のアフリカに広がるであろう悪夢的な光景をここに集約して象徴的に見せているともいえる。

マロリーは熱病と感染症に朦朧となり、ゲリラたちの、あるいは軍の襲撃に遭いながら、ほとんど生きているのが不思議な状態で、水源までの道行きを続ける。『ワンピース』の主人公達もよく生きてるなぁ〜、それって嘘じゃネ?状態で闘いに勝ち残るけど、マロリーも似たようなもん。生きて辿りついたのが不可思議。

この河の行程はもしかしたらマロリーが見た悪夢に過ぎなかったのかもしれない。マロリーの考えはあまりにも非現実的で、一貫性もなくだらだらと執念だけで動いているし、その彼の「河を殺す」という執着がそもそも「はぁ?」ってなわけだが、バラード自身が描きたかったのは、この悪夢の連続だけだったのかもしれないというくらい、とにかくなんだか色々な点で必然がない。

小説のシュールレアリストで、理屈とか求めてはいけないのがバラードなんで、これでいいんだとは思うけど、入院しているときとかに病院に持ち込むと悪夢見そうで嫌だよね。

ところで、昨年こんな本も出たらしい。見落としていた。BK1で購入して島で読まないといけないじょ。

『奇跡の大河』と同じような内容だな。