『ぼくのともだち』ボーヴ・80年前のニート小説

同じ白水社から出ている『きみのいもうと』の前作

ぼくのともだち

ぼくのともだち

ボーブは1800年代末期に生まれた人で、まぁ約一世紀前というかこの物語の時代も1910年代。第一次世界大戦に出兵した傷痍軍人バトン君が主人公である。主人公はボーブのほかの小説の主人公同様、駄目人間。働く意思があるのかないのかも判らず、ただぶらぶらと、わずかな軍人年金もらってパリに棲息しているだけ。彼の欲望は「友達が欲しい」ただそれだけであり、働かないんでアパートの隣人からも胡散臭い目で見られている。年金だけのつましい暮らし、というかどん底貧乏なんだが、自分は欲がないからそれでいいなどと満足しきっている。奇特な紳士が彼に職を紹介しても、なんだかその紳士と知り合ったというだけで舞い上がってしまい、全てをぶち壊してしまう。
働くとかそういう社会参加など興味なく、ただ己の望みである、自分をあるがままに認めてくれる他人である「友達」を欲している。しかし「自分を認めてくれる」その認め方を彼個人が規定するやり方に適っていないとすぐ失望してしまうなど自尊心が強い。
・・・・うーん。昨日書評を書いた内田樹の『下流志向』に描かれている「若者」そのままの人物ではないか。ニートが現代の問題だなどと誰が言った?一世紀くらい前にもいたんだな。

ボーブを紹介したのはコレットであり、彼女の叢書の中にこの小説は納められた。同時代のフランス人の間で評価も高くよく読まれたらしい。当時のフランスの状況がこの人物的なものを多く知っていたとするなら、今のニートの問題というのはどう解説したらいいんだろう。などと思った。

で、ボーブの登場人物の描写、友人を欲してやまないが、しかしそれは彼個人の要求の中に於いてのみ完結するので、相手に対しどうであるかが省みられていない状況が結局、彼を孤独へと追いやっているという図式。それは内田氏が『下流志向』で分析している等価交換とかいう発想で描かれている「贈与論」の問題に通じるだろう。
ええと、「贈与論」ってのは実は私が住む島のことを検索するときに大量に引っかかってくる言葉ですごく邪魔で嫌いだったんだけど、ここで出会うとはねぇ。経済脳、社会科学脳がないわたくし的にはモースとかいう人とか、まったく関係ない存在であったので、もうGoogleのゴキブリみたいなものとしてすっごく嫌だったんだけど、ついにその言語をちゃんとその言語目的で検索する羽目になろうとは。
とにかく、わたくしが昨日「よくわかんねぇよ」と書いた世界がこれで、他者と自分との関係性において為されるナニゴトかについて、与える・受ける、等価に交換する、ということで説明していくのが内田さんのお説。だからその根底にあるだろうと思われる「贈与論」ってのを調べて見ないと判らなかったですよ。こうやって「知らないと気持ち悪くなってしまう」為に調べてしまうあたりは既に古い人間世界にいるのかどうかは不明ですがね。
で、話を戻すのだが、ボーブ君は内田氏が書くお子様の如く消費者的な立場で、時間を無視した、そういうやり方で「交換」を為そうとする為に、結局孤立してしまっている。ただ彼の消費的な欲「友達が欲しい」だけが残り、それ以外は「心臓の音を聞くのが怖い」という連綿と続く日常性に押しつぶされている。

・・・いやはや、まったく気が滅入るような小説なんだが、ボーブの筆致が、一人称で語られているのに、例えばカフェのガルソンの服のしわについてとか、アパルトマンの床の描写とか事細かなディテールの観察に絶えず終始していこうとするそのお陰で、妙な客観性を持つこととなり、主人公の悲惨さが小説の描写の中で昇華されている。だから読んでいて悲壮感がない。

ところで、これっくらいど貧乏で尚且つ、もっと自尊心が強すぎですごかった人といえばヴィリエ・ド・リラダンってのがいるけど。小説家ね。養護院で野垂れ死にした。なんせマルタ騎士団だかとにかく十字軍に行った栄光ある貴族の末裔。由緒正しくなおかつその家門の古さからもおフランス的には尊敬されるお家柄の末裔でいながらにして、すげー貧乏であるが、ブルジョアをすごく嫌っていた。彼にとっては由緒正しい貴族か貧乏人かしか興味なくブルジョアどもの俗悪さを呪いまくっていた。
この小説のバトン君はそんな出自でもないし、そもそもそんなブルジョアを呪うような気概もあまりない。「友達が欲しい」が肥大しているだけ。その肥大ぶりは、はてなあたりで「非モテです〜」と「彼女が欲しい」「女の人に好かれてみたい」と悩んでいる青年たちの像にも重ならなくもないけど。少なくとも「非モテ」であることを他者に向かって言ってみるとか自己分析しているだけ能動的。それすらしないで鬱々と待っているのがバトン君。

その「友達欲しい」と念じている様と、友達になるかもしれない他者とのかかわりと壊し方、妄想っぷりもこれまた面白く涙ぐましいので、どこかに読み手にとっての救いがあるのかも。本人(バトン君)は辛そうだけど。