『下流志向』内田樹

内田樹が「なんだかbk1ですごい売れてるけど。アマゾンでは54位ぐらいなのにbk1ではなんで2位なんだ?」とか疑問に思っていた本。まぁ流行っぽい本を買う人はその過半数を超える割合でアマゾンの「一ヵ月後に届く」が我慢できないんだと思う。わたくしみたいに。
センセが「国民の皆さんに読んでもらいたい」などと大きく出ていたので読んでみることにした。暇だし。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

昨今のクソ餓鬼どもは、勉強しやがらない。授業中うろうろする。そのわりに「これを学ぶことに何の意味があるんですか?」などと生意気なことを聞いてくる、ぶん殴りたくなるようなかわいくないクソ餓鬼ども。或いは勉学する気なくして、知的素養の欠片なくとも恥ずかしいと思わず、当然の如く知的好奇心などないし、働くことに意義も見出さず、 消費することに没頭し、そのわりに「自分探し〜」などとやっているお馬鹿なラガッツィども。某国の輩。ニートなどという社会の不良債権になっているような若者達。
そういうのってどうして出て来たのぉ?
・・・ということを分析して書いている本であった。
以上。

・・って、これでは書評じゃないや。
なんかそれらを分析してこれらの学級崩壊する学習しないお子様達は「とうかこうかんてきしこう」でとにかく学習しないということ、学ぶという「苦役」から逃れることを選択しているということらしい。よくわかんないけど、とにかく内田氏もブログで説明しているけどビジネスな社長さん相手にビジネスなモデルで説明したらしいので、ちょっと私の如くビジネス脳が発達していない人間にはわからないことも多かったので、もう一度読まないと理解できない箇所もあったけど。

例えば、びっくりしたのは女生徒達の雑誌の読み方だ。女性誌に書かれた語彙のほとんどを理解していないというのだ。私の世代の人間だと、とにかく判らない単語が出てきたら気になる。理解できない言葉が出てきたら気になる。(だからわたくし的には内田センセの本の理解できない部分、経済思考で書かれた部分が判らないことは激しく不快である)昔なら辞書を引き、今ならググって見るわけだが、彼女らは判らないモノを放置するので、文章には沢山の穴が開いているらしいし、判らぬことは「なかったこと」なので不快と思わないらしい。
ほんと〜なのか?そ・それ????

とにかく、たしかに学ばない人が増えた。教養と呼ばれるものが無くなった気がする。でも若い人はほんとにモノ知らないんだろうかどうか?

以前、島の子供が家に遊びに来たとき、通販カタログを持ってきて「アレを買ってもらう」とか「これを買ってもらった」とかとにかくエコノミックに消費する話ばかりしていたのを思い出し、あれは片親ゆえの不満から来る寂しさの穴埋め的なものなのかと思ったのだがそうでないのかもしれない。

上記以外にも若い人に見られる様々な事例を紹介していくが、確かに思い当たるようなことが多く、以前学生に向かって「大学は自ら意思あって来る場であって学ぶ意思なくば必要はない。授業を聞かぬなら、学校を辞めて今から働け」などと叱責したのとかもう通用しないのか・・などと思った。んじゃどうこれから接したらいいのか?とは思ったが。

ところで。巻末に「師」の話が出ていた。オビワン・ケノービとアナキン・スカイウォーカーヨーダの話を持ち出して「師を持てるというのはいいこった」みたいな。そんな話。

丁度、大学時代の師の病の話を聞いて、師がいない未来を想像したことがなかった的な気分になっていたので、師と思える人に巡りあえた自分は幸せだったのか。などと思ったりもしたです。そういえばわたくしには霊的な師匠濱ちゃんもいるわな。

自分的には師というのは万能ではないが自分の前を歩く人という印象。「永遠に適わぬ場所がある人。」それが「師」だと内田氏は指摘する。古い時代感覚を引きずっているわたくし的にはそういうのはよくわかるし、まぁギョーカイに目を転じるなら、或いは聖人、もしくはイエス・キリストという人格神を持つキリスト教もそういう思考がどっかにあるかもしれない。

死刑になったしょうもないただのおっさんが神であるってのとか、あるいは人生を丹念に知るとトンでもなく迷惑なやつでしかない聖人とか、死んじゃった人だけに永遠に到達しえない形而上な師となったりする。

そういえば絵の師は、これまた自分の絵の師の話をよくしていた。(絵の師はもともと仏僧で、これまた師と弟子の関係性が継承されている世界で、そういう思考を持っていたともいえるけど)まさに内田さんが描く理想的な師の姿であった。

師とは、その生き様を背中から見ることで学ばせてくれる存在であり、学ぶというのはそういうことだったりする。知識の伝達ではなく、知識となるものをその人がどのようなやりかたで接するかを知ることだと思う。だからハウツーを教えるのではない、生き様を教えることで、教わる側は自ずとそれを模倣し、或いは応用し、次なる知なるものを目指すみたいに継承されていくという感じで。

そういう楽しさを今の子供が知らないのは、寂しいことなのか、どうなんだろうか?ニーズを感じなくばそんなことどうでもいいのかもしれないし。

つーか師匠なんて存在は、それが登場するのを待ってるんじゃなく、自分から見つけるもんというか、そう思えば誰でも師だったりするのでどこにでも転がっていたりするもんなのではあるな。

◆◆
書評としてはこの方のがよかった。
○海難記
http://d.hatena.ne.jp/solar/20070128
■消費としての労働

仲俣氏の言う

こういうことを書くのも、私自身が、80年代以後、そのような「消費主体」として再編成、あるいはもっといえば「転向」させられた人間だ、という思いがあるからだ。若者は3年で転職する、というけれど、私自身は、3年以上同じ職場に勤めたことなど、2度しかない。半年や1年足らずで何度も仕事をやめたし、そのときの根拠はつねに「自己決定」だった。

内田樹がこの本をはじめあちこちで言っているのは、「自分で自分のことを決定してはいけない」ということではなくて、人は「自分だけで自分のことを決定することなど、(できると思っても)じつはできない」ということだ。そのことに気づくまでには私もずいぶん時間がかかったし、いまでもつい、自己完結の方向にいってしまう。というのも、そのほうが楽だからだ。でも、そのツケは明らかにたまっていく。

これは案外、「友だち」問題ともからんでくる気がしている。古谷実の『わにとかげぎす』が、いま予感されているような「希望」の物語へと向かうとしたら、そのベースにあるのは、人は「自己決定」だけでは生きられない、ということの再確認だろうか。

橋本治は昔、全共闘世代の多くが「連帯を求めて孤立をおそれず」とうそぶいていたとき、そうではなく、「孤立をもとめて連帯をおそれず」と考えたそうだ。人が本当の意味で「自立」したかったら、他人をおそれてはいけない。お互いを「おそれ」あうことで、結果的に人々が孤立しているのが現代なのだとしたら、「自己決定」「自己責任」というきれいごとの言葉のうらにあるのは、まさに例の「囚人のジレンマ」というやつだ。

・・・という箇所が今読んでいるエマニュエル・ボーヴのこの本の主人公を髣髴とさせるのが、なんか共時的

ぼくのともだち

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