『きみのいもうと』『私を離さないで』

入院中に読んだ本の書評。

きみのいもうと

きみのいもうと

白水社というのはいつもいい本に目をつける。レオナルド・ボフ・・・ちがった。ジャック・ルゴフをはじめて知ったのも白水社だ。白水社、えらいよ。
ポーブというのは80年前の作家で、生まれたのは1800年代末期という人。なのに作品の内容は現代作家に通じる、いや寧ろ現代人のほうがより感じるかもしれないような、そんな普遍的な「駄目人間」「下流人間」物語を書くのがうまい作家だそうで。前作『ぼくのともだち』も駄目人間が主人公だったらしいし他の作品もそうらしい。

駄目さかげんではナニも出来ない入院生活にうってつけで、おフランス小説の最高傑作などといわれているようなプルーストの主人公宜しくだらりと昼日中からベットから出ずに読む本としては環境設定抜群である。

読後感は・・・「坂田靖子の漫画に出てくるような主人公だにょ」という感じ。坂田の作品もしょうもなくぶらぶらした主人公(概ねほとんどが男である)が出てくるもんな。それに加えてフランスはパリのあのどよ〜〜〜んとした救いのなさそうな路地裏の空気が蔓延している感じで、この本を若い頃に例えば4畳半の下宿かなんかで読んだらマジ気が滅入るかもな。と、いうような、つまり閉塞的世界が丁寧に書かれている。大きな事件が起きるわけでもなく、日常にありそうな閉塞感。しかし、何故かユーモアを感じさせる表現で書かれている為か、どことなく悲壮感に繋がらない。

そういう意味では読後感のよい本だった。前作も読みたい。

わたしを離さないで

わたしを離さないで

カズオイシグロは「日の名残り」という本しか読んでない。だから他と比べてどうという感想はない。

これは奇妙な内容で、SFなのか現代なのかわからぬ描写、寄宿学校を舞台にした空想世界なのだが、空想部分と日常なリアルさが半端といえば半端に融合していて、どの位置に足を置いていいのかはじめは戸惑う。

成分分析するならイスマイル・カダレの『夢迷宮』にコクトーの『恐るべき子供達』と萩尾望都といった伝統的な少女漫画エキスが加わるという感じですかね。妙にリリカルである。小説というよりは文学少女な漫画家の書いた作品を読んだという感じ。そういう点では受け付けない人もいそうだけど、わたくし的には頭を漫画モードに切り替えて読んでいたのでそれなりに愉しんだ。

主人公達が置かれた運命の状況を疑問も思わず受け止めているあたりがすごく不気味でもあり、それゆえに後半の種明かしがなければもっと面白かったかもしれない。なんだか消化不良といえなくもない小説だった。それ以外にも人間関係における心理描写にも表象的なものを感じなくもない。だから「小説モード」として読んだら「あ?半端臭くないか?」という感想になってしまう。

自分に切り替えスイッチ、つまり「小説モード」と「漫画モード」があるのを発見した作品だったな。対象作品が漫画であるか、小説であるか如何に関わらず「漫画モード」では映像と雰囲気にゆるゆるとぬるく浸り、「小説モード」ではそのゆるゆるさを取り除いて読むようである。だから小説には妙に厳しいかも。

ところで、この小説のワンシーン。タイトルにもなった『私を離さないで』という音楽作品をかけながら主人公が赤ん坊をあやすように踊る光景。子供を生むことができない、つまり妊娠することが出来ない肉体を持つ「種」である主人公が未来に手にすることも出来ぬ「ベイビー」と踊る光景。それを見て涙する謎の「マダム」の光景読みながら、複雑な気分になった。

私のいた病棟は産婦人科なので、入院病棟の半分はお産を待つ母親だ。廊下の向こうからは赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。赤ん坊の泣き声というのはどうやら遺伝子の中で気になるシロモノとして認識されているのか、とにかく気になる。それは自分にとっては幸せを伴った、つまり「豊かさ」の分野に入る感覚を伴ったものとして認識させられているらしい。

産むということの豊穣さを寿ぐと共に、この小説の主人公の持つ乾いた寂寥感というか自覚なき寂しさ、はなんとなく判る気がした。けして慟哭でもなく、わが身の不幸さをめそめそと嘆くような悲しみでもない。もっと乾いている。しかし自分の頭の中のどこかで寂しい。

ほんとうに「母」という感覚は生まれてのち学習させられるものなんだろうか?なんか根源的にあるんじゃあるまいか??こればっかりはよくわからん。