『ローマ人の物語』塩野七生

ローマ人の物語 (14) キリストの勝利

ローマ人の物語 (14) キリストの勝利

ローマ人の物語 (15) ローマ世界の終焉

ローマ人の物語 (15) ローマ世界の終焉

入院中、痛みが引くと共に反比例で激しく暇になると自ずと読書量が上がる。最後の二日はこの二冊を読破。あのずいぶん昔に第一巻読んだなぁ・・な物語がついに完結した。15年か?

塩野さんはとにかくキリスト教が嫌いというか、あとローマ、或いはイタリアマンセーなのでそれ以外への侮蔑っぷりがすごくて、オリエントとガリアに対しても酷いものである。オリエント?ダメダメあんな風通しの悪い風習サイテー。ガリア?野蛮人どもが!キリスト教?あ〜、あの偏狭な人たちね。一神教ってやぁね。というバイアスがはっきり出ていてはっきりしすぎているだけに面白いが、あくまでも塩野史観であるという前提で読まないと、時々判断が狂う。ことにオリエントの評価に対してどうなんだろう?という疑問はある。ただ、それについて述べられただろうコンスタンティヌス帝の巻を読んでないんでよくわからん。

14巻に関しては「背教者」ユリアヌス(はぁと)とアンブロシウスという二人について書いている。ユリアヌス(はぁと)への評価は私的には好きなお人だし、また彼への塩野さんの評価についても予測がついたのでなんら真新しい印象は持たなかったが、アンブロシウスというキリスト教の司教への評価をどう考えているか知れて面白かった。

塩野さんはアンブロシウスは司教でありながらしてローマ的な思考を持つ実際家故に、だからこそ有能だ(つまりローマ帝国的には困った相手)という評価をしている。ナニが何でもキリスト教による成果であるとは思っていないとこが塩野さんらしくておかしい。だが彼女が指摘するとおり、組織化するならおよそ宗教者的な発想では構築できないだろうとは思う。アンブロシウスのごとき実際家によって始めて組織は堅牢になる。理想家や霞み食って吐いてるような宗教家は砂漠に引きこもっているほうがよい。因みにその後出てくる、キリスト教史としては重鎮たるアウグスチヌスに関しての言及は異常に少ない。ローマ史的にはどうでもいい人なようだ。(わずかな記述から知れる印象としてはそれなりに評価していると見たが)

この辺り今読んでいる若桑みどりの『クワトロ・ラガッツィ』の宣教師ヴァリヤーノの像とかぶるから面白い。ヴァリヤーノもイタリア人だ。しかもルネッサンス期の、ミケランジェロと同時代人の。彼の他宗教への、他文化への寛容なまなざしを塩野さんなら「流石、ローマの末裔。野暮なスペインの原理主義的な馬鹿どもとは違うわぁ」などと考えたかもしれない。

この時代のローマ帝国版図におけるキリスト教の信者がアリウス派が主流でとても多かったというのは知ってはいたが、どういう分布なのか?状況なのか?は知らなかったのでその辺りは面白かった。アリウス派は寛容で。カトリック(今の正教とローマカトリック)はそれに比べると偏狭、ドナトゥス派はもっと偏狭。というグラデーションがあるようで。これは宗教の教義性というより民族性にもよる気がするけど。北アフリカドナトゥス派の残酷なやり方とか、今の北アフリカ諸国の顔ぶれ見ているとなぁ。

東ローマ帝国におけるカトリックの偏狭さはギリシャ哲学とヘブライズムが結合した哲学的な偏狭さでもあるんだろうが一般市民までもが教義についてうんちゃらしている辺りが東の面目躍如というところか。流石ギリシャ文明圏。しかし形而上な方向のロゴス化ってのは原理化しやすい。その点、ローマはいいかげんで実践家が多いので、その後の西のローマ帝国の末裔、ローマ・カトリックの世俗臭さとか堕落っぷりは予測のつく結果ともいえる罠。

しかしローマの衰退はなんとも悲しい。しかし衰退の物語というのはどこか面白いとも思う。この衰退の時期のあの「ローマ法大全」が編纂されたというのも面白い。「法」というのはその文明なり文化の結晶だと思う。「法」を知るとその法のもとの民のことを知ることが出来るとは思う。現代にもそして地球の反対に住む我々も活用している法を作り上げたローマ文明の持つ普遍さは確かに偉大だったと思う。ローマは死して法を残した。

ローマは自然に崩壊していった。これという原因もなく自ら徐々に長い時間をかけて崩落していった。しかし「ローマ」は生き残っている。ローマ法に。今のヨーロッパ人の心に。その痕跡は現代でも色あせず生きているとは思う。ローマは滅びてはいない。ただ「地上のローマ」が滅びただけなんだと思う。


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ところでカトリックにも「法」がある。「教会法」というシロモノだ。昨今の日本の司祭はこれを胡散臭いものと看做しているのが多いが、「法は裁くものだ」という頭があるからなんだろうな。どーにもこーにも偏狭なものの見かたというか・・とほほだ。教会法こそローマの末裔でもあるローマ・カトリックの実際的な思考の現われだと思うんだが。どうだろうか。

但し、法は用いる人間によって、愛の発露にもなりうるが、害にも毒にもなる。それは世俗法も教会法も同じではある。ことに教会法はあくまでも福音の精神に基づくものたらねばならない。ゆえに解釈がものをいう。我が師匠はこの「教会法」の専門家なのだが、法解釈を場合によっては180度変えてしまうこともあり、屁理屈の権化である。その屁理屈っぷりが面白いので色々質問してみるのだけど、ちゃんと法に乗っ取った回答が帰ってくるのが面白いです。教会法にも判例集が毎年出ていて、師匠はそれをちゃんと読んで研究しているようですが、「他の人はちゃんと読んでおらん。けしからん。」とぶんむくれていた。
師匠を見ていると、あ〜、ローマ人的かもしれないと思うことが多いです。日本人だけど。