神学校のクライシス

上記のエントリに関連して。
最近、カトリックの神学校でも教養崩壊が甚だしいようだ。神学校というのは特化された場で、一応大学卒業のスキルを要する。だから或る程度の教養は既に身についた状態でやって来るはずなのだが、今はそれがもうダメダメらしい。神学というのは哲学の素養も必要とするのだけど、共通の知識が無い状態のモノが増えたために、そういう基礎的な哲学から教えないといかんらしい。
なもんで、なんだか聞いていると予備校化しているというか、本来そうした専門的な機関というのは、学となる対象、(ここでは神学)への探求の姿勢なり精神性なりを学ぶところで、あたかもアベラール様のごとき粘着な精神性を発達させるとか、トマスのごとき知の誠実に心打たれて感動するとか、そういう学究におけるマニアックな歓びを開化させるトコだと思うんですが、そこに至るまでの知識自体が既にない。
正直、そんなものは自分で放課後学べ。などと思うんですが昨今は手取り足取り教えないといけない。それに「社会活動」と称して、学校で学ぶ以外はそういう社会活動(よーするにボランチア)に時間を取られるので学ぶ時間がない。なもんで神学校があぶはち取らずな学究の場に成り下がってしまっているようです。
社会活動なんか別にいつでも出来るんで、神学生の時間だけでも精神的な探求にもっと時間を取ればいいのに。などとは思いますね。
思想的な軸がしっかりしないとあとでふらつくと思いますよ。社会活動に参加するのでも、そうしたしっかりとした「思考」の鍛練をしているのとしていないのでは大きく結果が違ってくると思います。
今ギョーカイを見渡しても、以前の時代のような知の巨人といえる神父は少なくなりつつある気がします。年齢が上の方にはまだまだそれにふさわしい人がいますが、若手はなんだか学者というよりは教養セミナー講師レベルな。狭い分野以外のことを語れなさそうな印象の人か、超軽な社会活動君という感じの方が多い気がします。というのも読みたいようなレベルの本を書く人があまりいない。ギョーカイで知が軽視されすぎているからでしょうね。困ったものです。ラッツィぐらいのレベルの人がゴロゴロいて欲しいというのは贅沢な希望なんでしょうか?
(しかし、そのバチカンも神学校に「教授の司祭比率これくらい!!」などとわけの判らん押し付けをしてくるらしいので困ったものだね。信徒でその道の専門家という存在は侮れないと思うんですが)
以上、ぎょーかいネタでした。
ま、某友人達は頑張って欲しいと思っておりますですよ。