知のクライシス/フェミニズムの終焉?

最近「エビちゃん」という名前をあちこちで目にする。知らんのだよ。このエビちゃんとやらを。テレビ見ない新聞も読まない雑誌も(もらうもの以外)手にしない環境だと、昨今のトレンドキーワードが理解不能である。その不能なワードの一つが「エビちゃんはてな村内のギョーカイ用語は知っていても世間的なワードは知らないというすごい偏り方であるよ。私の「エビちゃん」は大学院の時代の同級で、永らくイタリアに留学し、そこで泥棒なんかが住むようなすごい下町のアパルトマンでイタ公相手に剣道を教えながら生活していた「エビちゃん」である。帰国してからはトラックの運転手なんかしていたハードボイルドな御仁である。イタリアに行く時、彼におよそ御婦人が口にするような言葉じゃないイタリア語を教わったために恥をかいたことがあるのがわたくしの「エビちゃん」の思い出であるよ。
そのエビちゃんなる言葉が内田樹氏のブログに!!

内田樹の研究室 ■エビちゃん的クライシス
http://blog.tatsuru.com/archives/001731.php

なんか不景気には「稼ぎのある、強い女性」が人気を得るが、好景気だと「アクセサリー的に美しい、庇護欲をそそるような女性」が人気を得る」んだそうです。で、今はでこらちぶな「エビちゃん」が人気と。へぇ。でこらちぶなエビちゃん人気だとつまるところ好景気なのか不景気なのかどっちなわけ?・・・とにかくある発表者がそういったらしいよ。それでそれがフェミ的にどうよ?と内田樹氏が生徒に問うたところ、
「『フェミニズム』ってなんですか?」
内田ゼミの学生の多くが「フェミニズム」という言葉を知らず、上野千鶴子のことは誰も知らなかった。
わたくしは自慢じゃないが、学問とは無縁の美大あがりである。正直中学高校はカトリック校だったんで「倫社」という授業はなく代わりに「宗教」という時間があって、神父が来て聖書を読むという内容だった。哲学も、思想も、生涯を通じてアカデミズムの中で学んだことはない。だからソクラテスプラトンデカルトパスカルマルクスニーチェも授業という場で学んだことはないが知っていた。共通一次に「倫社」を採ってそこそこの点すら取った。そんなものは小説とかエッセイとか漫画とか読んでて知っていたからだよ。(当時の少女漫画はけっこう侮れない世界であった。)なもんで、当然、上野千鶴子氏は知らなかったけど「フェミニズム」ぐらい知っていた。今でこそすごいシスターもいる時代になったけど、昔のカトリックは「フェミニズム」なんぞ目の敵にしたくなるような代物だったから、余計に「教える」なんて土壌は無かった気がする。ただ反抗期だった私は、シスターご推薦の良妻賢母な「聖母マリア」がとにかく嫌いで、マグダラなんぞに同情したりしておりましたです。(未だにその傾向がありますが)その流れでフェミニズムなんかも考えていた気はいたします。いつそれに出会ったのかは記憶にはないのですが。
で、例えば「ダ・ヴィンチ・コード」のようなト本ネタが何故流行るのか?先日、友人が私の書いたエントリについて電話で「それは知性の堕落、知識の堕落、教養の堕落だからだ」などと語っていた。そうかもしれない。「或いは陰謀論が流行るのもそれがセンセーショナルだからだ。教養があれば「陰謀論」などを取り沙汰するのは恥ずかしい。」などと彼は指摘していた。「本来、歴史的なことを取り扱うなら文献をとにかく調べるとか地味で丹念な検証を要するけど、センセーショナルなと本的な歴史とかそういうのはまず結論ありきでワイドショー的に話題性があれば充分。細かい検証などには目が行かない。」などと評していたですよ。
ふむ。当り前のように共有されていた教養が今や死滅しつつあるのかもしれない。あちこち見ていてもなんとなく陰謀論的な発想をする人が異常に多い。そういえばかつてのミステリーに於いてはこうしたト本ネタはあまり存在しなかったというか、どちらかというと確信犯的に扱うか、或いはキワモノとして存在するか、そんな少々カルト的な位置づけだった。読む側が既にそう認識しながら読むわけです。そういうと本は「ムー的」な存在だと認識しながら、アングラなモノを愉しむという感じで接してきた気はする。だから「と学会」なんてのがその手のジャンル本をヲチ的に愉しんだりしたわけなんだが。
今はなにがトかすら判らなくなっている程に基礎となる教養そのものは共有されていない時代なのか。
だから内田ゼミの光景も「フェミニストの責任」という以前の問題ではあるまいか?
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それと「フェミニズム」というジャンルは直接的な差別の問題として体感的なものであり、現代の若い人々の間では既に切実に必要とするような場面にあまり出くわすことが無くなってきたのかもしれない。「女性である」という問題より、若い人全てにおいての問題の方が切実であり、優先される。ニートや就職難、下流問題は男女の性差に関係なく若い人々にのしかかっているわけで。
もし女性問題があるとするなら、現代の場合は少子化における問題を女性側だけの問題にするような風潮。「女性が働くからだ」とか、「家庭を守らなくなったからだ」という女性への責任転化の風潮が寧ろ女性を追いつめ、母になることへの重責を感じさせ、その結果、より少子化を招いているていると思うのだけど。そしてその「母性」を真っ先に否定したフェミニズム。子を育てるということの価値を無価値なモノへと追いやってしまったような、女性性の持つ固有の現象のわい小化などに見られる考えの結果だとするならちょいと責任は大きいんではあるまいか?
子を育むという行為に専念することのよさを男女ともに共有するような価値へと持っていかなきゃいけなかったとは思いますが、彼らにとっては家族の解体の方が重要みたいに思えるし。(因みに「家族」という単位はヘーゲルセンセじゃないけど、非常に効率のよいシステムだと思いますよ。愛情とかメンタルな要素なんか抜きに考えないと。社会性を学ぶ「機関」としての家族、最小単位の社会共同体としての家族ってのはね。)
・・・・ああ、話がえらくそれちゃったよ。
とにかく若い女性においては、いまや男女格差に於ける不当性というのは実感のないことになっているのかもしれない。だからリアルじゃない。なもんで不要といえば不要な「教養」のジャンルに追いやられてしまったのかも。正直、ニーチェがナニ言ってたかなんか知らなくても、フェミニズムの知識がなくても生きてはいけるわけです。私もエビちゃんは知らないけど別に生活に支障は来たさんしねぇ。
ただ、文化的にはつまんないけどね。ニーチェエビちゃんも知っておいた方がほんとは面白いやね。
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そういえばオルテガが「大衆(馬鹿)は科学の恩恵に充分あずかりながら、科学者をそんけーしなかったりしやがる。ぷんすか。」と怒っていたけど、確かに過去のフェミニスト達の運動のお陰で私なんぞも親のいいなりにならずに(お陰で未だ独身だが)かようにげいじつなどをしていられるって按配ですね。若い人々もかつての女性解放運動家の働きがあって今があることは知っておいた方がいいとは思うですよ。
まぁ、今はなんだか「フェミファシズム」などと呼ばれるいき過ぎたようなフェミニズムの論調が目立つので、困ったものだとも思いますが。この辺り、わたくし的には内田先生のフェミニズムに対する考えに近いかも。