中世が読み取るもの

西洋中世の古地図にTO図というものがある。聖地エルサレムを中心として、ヨーロッパを上部に地中海を挟んだ下部左手にエジプトや北アフリカの国々、そして右手に中東の国々が描かれている。我々はヨーロッパというと今のEUの範囲を想像するが、中世の文明は地中海を中心とした世界であり、キリスト教圏とイスラム教圏がせめぎ合っていて、寧ろイスラム、或いはビザンツの方が文明的には進んでいた。その地図も中心を離れればはなれるほど曖昧になり、遠方には魑魅魍魎の住む世界があると考えていた。
或いは海は未だ征服されざる場所でありそこにもまた怪物がいると信じていた。実際、夜の海は闇に閉ざされナニが潜むか判らないようなところである。日が射す時間ですら海には光の差さぬ闇が静かに存在する。海の深遠は太陽系の世界と同じくまだ未知なる場所でもある。だから海には多くの伝承が存在する。判らぬものを判ることに変換しようとしたのだろう。
同じように中国の古代の地図でも中原を中心として離れればはなれるほど怪しい存在の住む土地だったりしたようだ。多くの化け物、変わった生態を持つ人々が暮らす土地があると信じられている。
人は未知なるものに形をつけようとする。なにかそれが漠とあるのが気持ち悪い。だからなにかを名辞する。あるいは造形化してみる。意味付けをする。かくして中世の人々は怪物を作り出し、物語を産み出し、それを真実とすることで安心した。
現代人は、自然には囲まれていないので自ずと隣人に目が行く。しかし隣人ですらほんとうのことは判らない。だからなにか属性を与えることで安心しようとするのかもしれない。カテゴライズするとはそういうことなのだろう。そしてはじめて語れるような気になるが、けれどそれは錯覚だ。
閑話休題
最近、島は大潮で、晴れると空に大きな月がでる。まったくの暗闇である空間を月はあきらかにする、海の水平線が光を受けて輝き出す。不安な夜に浮かぶ月の存在は優しい。それは道を見失いがちな闇を照らし、我々に道を与える。中世の人はこの月を聖母マリアに喩えた。自らは輝くことなき存在でありながら、太陽の光を受けて輝ける存在となる。青白き光で闇に脅える我々を導く。太陽はあまりにも厳しく強過ぎる光故に直視は出来ない。しかし月はその表情すら分る。それを中世の人はマリアに喩えた。近しく感じる存在として。
そういえば、今月は聖母マリアの月で世界のあちこちでマリア行列などが行われる。
東京などではまずお目にかかれないが長崎ではやっているようだ。こういう祭ってのは大切にした方がいいと思う。へ理屈とか関係ない世界。そういうのは必要だと思う。