村上隆とアート世界、著作権など

私も剽窃してみる。

パロディとは果たして著作権というのはどうなるんだろう?マッド天野氏の仕事とか。

村上隆の一件で色々読んだが、どうもすごく嫌われている。はてなのキーワードなんかちょっと酷い。気の毒だよ。あんまり嫌われているのを見ると天の邪鬼な私は弁護してみたくなるけど、どうにも訴訟だけはやはりまずかったとは思う。
そもそもアニメや漫画といった素材をアカデミズムの位置に持ってくるということを村上氏は高次の位置に持ってくるという認識があったようだ。それについて彼の言葉で語っていたのを見付けたんだけどうっかりブクマし忘れて何処にあるか判らない。
美術=アートが美術館やギャラリーで展示される。その場において思索される対象としてある物体。それがアートとするならアートのジャンルとはいつこのように村社会化してしまったのか?いささか疑問に思った。アカデミズムの解体を目指したマルセル・デュシャンレディメイドとはナンだったんだろうか?村上氏はデュシャンや或いは昨日挙げたフルクサス運動といった現代美術の系譜の中にありながら、「アカデミズムの場にある」ということに最上の価値を置いている。それが今回の事件で明らかになったとは言えるんじゃなかろうか?それは村上だけの問題ではなく、アートのアカデミズムという性質の問題そのものなんだろう。
商業美術とアカデミズムなアート世界はやはり分断しているのか?
色々と考えさせられるニュースではある。
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著作権という問題では、横尾忠則資生堂を訴えたという事件が記憶に新しい。タナカノリユキがプロデュースした広告の手法が自らの作品の剽窃だと訴えた事件である。
○Copy & Copyright Diary
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20060426/p1
■[著作権]村上隆氏と横尾忠則
ヰキからの引用

2005年、資生堂が3月に発売した発毛促進剤「薬用アデノゲン」のテレビコマーシャルが、鏡面床の空間に、大量の滝のポストカードをビニールに差込み、壁面3面に展示する横尾自身の作品と「アイデアやコンセプトが私の作品と類似している。広告の作り手の主体性とモラルを問いたい」と抗議。直後に資生堂はCMの放映をやめた。この件に関して、
アンディ・ウォーホル荒木経惟など、数多くの芸術家が実践してきた手法であり、インスタレーションの手法としては一般的である。
1990年の「GOKAN」というエキジビションで、テレビCMを手がけたタナカノリユキは、底を鏡面にした作品をすでに発表している。
横尾は滝のポストカードだったのに対して、CMは商品対象になる人物たちのモノクロ顔写真である。
などのことから、模倣という指摘に疑問をもつ声も挙がっている。タナカは模倣を否定している。

タナカノリユキ氏は大学の先輩である。あの頃、福田繁雄が教授にいて、彼は授業となると自分の作品ばかり見せていた。その中に違う画像を大量に並べて、まったく違う画像を造る、なんてびっくり絵画なんかを展開していた。タナカノリユキ氏も李朝の民画を自分流に描いて同じ絵を並べて見せるとか、そういう複数絵画の並列という手法をやっていたりしていた。卒業してからも建築材料を持ってくるとか、異質な素材と絵画の組み合わせって展開はしていたし。ちょうど、横尾忠則表現主義みたいな絵を描いていた頃である。その当時、横尾さんは「ゲオルグ・バセリッツみたい」などと言われていたのを思い出す。なもんでタナカノリユキ氏の広告での手法は随分前からその根があったと思うし、剽窃と言えるのかどうか疑わしい。

そもそも、剽窃などいいはじめたらペルジーノはラファエロを訴えなきゃいけないし、ブラックはピカソを、ベッリーニレオナルド・ダ・ヴィンチを、・・・・・・・とにかくキリがないよな。とはいえ著作権の問題は確かに頭が痛い。キャラモノ世界は特にそうだ。容易く模倣出来る。しかしコピー(大量生産化)されることが前提で、それ故に容易くコピーされやすい商業世界のモノ達ならともかく、アートシーンに於いてそれを行ってしまうと自分で自分の首を絞めることになってしまうんではないか?どこかで見たことがある・・けれどオリジナルではある。というのが村上氏の作品で、その彼が、どこかで見たことがある・・・けれどオリジナルという存在を否定してしまうというのは。

なんとなく「アート」とは何ナノだろうかと再び考えさせられてしまうのではある。

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そういえば、昨日、海散歩に出掛けた時、漫画家のKK氏に会った話を書いた。彼は「早く島に移住したい」「アシスタントに任せられるならいつでも来ちゃうのに」などとおっしゃっていたが、やはり人物描写だけはアシスタントに任せられないらしい。つまり彼の線を再現出来るヤツがいないんである。単純な絵柄なんだが、あの気の抜けた人物達は彼にしか描けない。彼オリジナルである。実は彼は赤塚不二夫の弟子であったそうだ。「師匠のキャラは描いたんだけどね」バカボンとか赤塚氏のキャラ達は弟子達の手も加わっている。だからといって赤塚氏の作品がオリジナリティがないというかというとそうではなく、あの破天荒なパワーのある物語は彼にしか描けない。キャラの表情は真似出来ても、全体で作品なわけで。
村上のDOB君とやらを幾つか観たが、訴訟で比較されている作品ではない別のシリーズには彼独自のオリジナリティが溢れている。あの訴訟で比較されたものがDOB君とは限らないわけだ。だからこそ余計に何故彼が今回著作権というか剽窃を訴え出たんだろうか?彼の作品群の中では彼自身のDOB君は決定された形が無いようにも見えるのに。そして決定されない展開の総体の中に彼がある。だから表象の相似などまったく意味がないように思えるんだが、どうもなにか引っ掛かりがあったんだろう。彼の弁明だけではそれはまったく見えてはこないが。