メキシコバロック

随分前になるが、K社の雑誌で竹下節子さんと組んで仕事をしていたことがある。竹下節子さんはフランス在住の比較宗教なんぞをやっている方で、カトリック周辺文化の、すごく変なものを採集して歩いている人だった。フォークロア的なカトリックのもう一つの側面。聖人崇拝、聖母崇拝。「崇敬」ではなくあきらかに「崇拝」的な多神教のメンタリティが産み出したような文化を採集しては文にしていた。
丁度、彼女が日本に帰ってきて、K社のこれまた変なモノ好きな担当編集者N氏と、面白いものを撮りまくっている写真家が居るから遊びにいかないか?と誘われた。変なものは大歓迎である。のこのこと彼らについてその写真家の家に遊びに行った。
写真家、小野一郎
彼はもともと写真家ではなく、建築家である。彼の家は私の母教会のすぐ近くにあり、コンクリート打ちっぱなしの家がどかんと建っていて、その壁にはタイル絵でグアダルーペのマリア像が貼り付いていた。「うへぇ。正面にこれかい??すげぇ趣味だ」などと内心思ったが、まぁ全体的にはすこぶるモダンな家で、寧ろその一種猟奇的とも見えるグアダルペのマリア像もモダンな中に調和していて、流石、現代建築の作家だなぁと感心した。中に入ると高い天井の居間がいきなりあり、正面にこれまたメキシコタイルの絵がどかんと貼り付いていた。扉はメキシコから運んだアンティークで、それがコンクリと打ちっぱなしのまっすぐでボリュームのある壁と調和している。わたくしも家を建てる時は玄関扉はバリ島のアンティークな扉を持って来たいと思ったが、そんな予算があるわけないので「思った」に留まった。とにかく、島に家を建てる予定だったので、しばらくは彼の家の造りの方に気を取られていたが、彼が撮りつづけたメキシコ・バロックの教会建築の写真帳を見せてもらうと、その過剰な怪しげな猟奇性に瞬く間に引き込まれてしまった。

MEXICO:BAROQUE

MEXICO:BAROQUE

メキシコバロックは独特である。過剰さの極み、密教美術に通じるフラクタルな装飾が血管や神経系のごとく壁を這い、人間の胎内の中にいるように思わせる。それは悪夢を喚起するようなそんな光景だ。ゴシックやイスラム美術のような鉱物的な連続性ではなく有機的な連続性。イタリアン・バロックのような洗練されたものではない土臭さが、スペインに連なる系譜を思い起こさせる。
スペインのトレド郊外に広がる大地に立った時、或いはバルセロナの旧市街の街角に迷い込んだ時、この土地には血の匂いがべったりと染みついていると感じた。風に血の匂いが、それも重厚で真っ黒などろりとした血。この土地は居心地が悪い。そう感じたことがある。スペインの歴史はよく知らない。どんな体験をその民族が背負ってきたかもよく知らないが、スペイン芸術にはそうした影がつきまとう気がした。ハプスブルグ家が支配した宮廷絵画にはそうした影を常に見るのでわたくしには受け入れ難い感性として感じられてしまう。エキセントリックで自らを傷つけていくようなそんな感覚。大地の土の香りがあまりにも濃厚過ぎて、ひ弱な農耕民族である私を拒絶する。
そのスペインの持っている独特の土と血の匂いをメキシコ・バロックは持っている。女性の子宮の中のどろりとした濃い血のような匂い。しかしそれは生命を育む海の匂いでもある。過剰な生の奔流がメキシコ・バロックにはある。
この土地ではマリア崇敬が盛んだというのも判る気はする。
スペインも、メキシコも陽光はきつく乾いている。乾いているその土地の教会の内部には湿った密度が詰まっているという対比。光と影の激しいコントラスト。正直、私にとってはあまり安らがない空間なのだが、ただただ圧倒されるエネルギーがある。この土地には痛みをさらけ出すようなそういう霊性があるのかもしれない。
メキシコ・バロックを見に彼の地に一度行ってみたいなどと思うが。遠いな。